夕焼けに浮かぶ読書する少年と草のシルエット

夢見る少年の昼と夜~現実よりももっと現実の世界~

こんにちは。丘紫真璃です。

今回は、福永武彦の「夢見る少年の昼と夜」を取り上げたいと思います。

福永武彦の本は好きだという方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。まだ読んだことないという方もたくさんいらっしゃるかもしれません。

フランス文学者であり、詩人であり、小説家である福永武彦の作品には、独特な不思議な美しさがあって、思わずゾクッとするような世界も少しも美しさを失わずに見事に描き出してみせる稀有な作家ではないかと、私はそう思います。

今回は、そんな福永武彦の世界とヨガとのつながりを見ていきましょう!

人間の心理の深奥を探る作品を書き続けた福永武彦


福永武彦は、1918年福岡県に生まれました。

三井銀行へ勤めていた父は、横浜、福岡、東京と転勤を繰り返し、母は福永武彦が7歳の時に亡くなっています。

幼少期に寂しかったこの体験が「夢見る少年の昼と夜」につながったのかもしれません。

発作性頻脈症、急性肋膜炎、肺結核など多くの病気と闘いながらも、1947年に戦後文学者として短編集「塔」や、詩集「ある青春」などを刊行。

その後も、腸結核、咽頭結核などを患ったり、離婚を経験したりしながら、1954年には長編小説「草の花」で作家としての地位を確立します。

その後は、学習院大学文学部教授を務めながら、人間心理の深奥を探る数多くの長編小説や、短編小説を書き残しました。

ギリシャ神話にハマっている少年

木の壁にかかった鳩時計
主人公は、10歳の少年である太郎。

転勤の多い父は多忙で家を留守なことが多く、母は太郎が幼い頃に亡くなっています。

福永武彦自身の幼少期を似通っていますね。

太郎は、お鹿さんという女中さんと2人きりで家にいることが多い寂しい少年です。

おまけに、今はもうすぐ神戸に引っ越すことが決まっており、友達との別れも近づいていました。

そんな今日は、夜、縁日が開かれる日。

太郎の友達も縁日へ行くというのに、太郎は縁日に行けません。お父さんが仕事で遅く連れて行ってもらえないのです。1人で縁日に行くことは禁じられていました。

「夢見る少年の昼と夜」は、そんな縁日に行けない日の昼間と夜の太郎を描いた作品です。

…って、あらすじを言ってしまえば、このような感じなのですが、これでは全くこの作品の魅力を伝えることができていません。

少しでもこの作品の魅力をお伝えするために、この作品の冒頭を長めにご紹介してみましょう。

鳩時計が今や時刻を告げようとして、発条のひきつれる掠れた金属製の音を響かせ始めた。それまで畳の上に横になってぼんやり天井を向いていた太郎は、そのかすかな響きにむっくりと身体を起した。箪笥の上の鳩時計にちらっと眼を遣った。慌てて目をつぶると、息を凝らした。
 間に合った。始まってしまってからではもう遅いのだ。お婆さんのように喘ぎながら、それが咽喉をぐるぐるいわせ始める時。……クックウ、と一つ鳴る。お婆さんじゃない、鳩なんだ。でもうまく願を掛けなけりゃ駄目なんだから、魔法使いのお婆さんかもしれない。魔法使いのお婆さんは喘息持ちだとお鹿さんが言った。喘息ってのはきっととても苦しいんだろうな。
 クックウ、クックウ、クックウ、クックウ、クックウ……。もう6つ鳴った。早く考えなきゃ。村越先生、青山先生、アブクちゃん、直ちゃん……そんな事じゃない。空を飛ぶ呪文、ピーターパン、ネヴァネヴァランド、違う。暴君ネロ、鼠、ネムの樹、墓地…。
 クックウ、クックウ、クックウ、クックウ、クックウ……。
 駄目かな、鳩。愛ちゃん。そうだ。愛ちゃんに会いたい……。
 クックウ。十二時だ。間に合った。
(『夢見る少年の昼と夜』(一部表記を変更しております)

 
この鳩時計は、太郎のおじいさんが外国で買ったドイツ製のものです。

この鳩時計が時刻を告げて鳴いている間に願を掛けたら願いが叶うと太郎は思っているため、鳩時計が鳴るたんびに、目を閉じて緊張しながら願を掛けることにしているのです。

また太郎は、引き出しの中に丸くて大きな青い缶をしまい込んであり、その中に宝物をたくさん入れているのですが、この缶を開く時も、鳩時計が時刻を告げる時と同じように緊張しています。

この缶を開くときには必ず呪文を唱えることが決まりです。
 

太郎は早口に、口の中で呟いた。
太郎は胡麻を開く。
神秘の色は青い。
物にはみな歴史がある。
(『夢見る少年の昼と夜』)

こうして呪文を唱えてから、缶の蓋を開き、中の宝物を1つ1つ大事そうに眺めます。

父親の懐中時計の銀の鎖。古くなって少し錆びついている。これは昔はもっと大きかったのだ。これは可哀想なアンドロメダを縛っていた鎖だ。それをペルセウスがヘルメスから貰った剣で切ったのだ。
 桜貝。綺麗な透とおるような薄い貝殻、九十九里浜で拾った。これは最初はもっとずっと大きかった。これは波の泡から生まれたアプロディテが、その足で踏んでいた貝だ。だから昔は地中海にあったのが、段々に流れて九十九里浜まで流れついたのだ。
(略)
 紫水晶。そのよく光った平な面は、鏡よりもよく物を映した。不思議な模様が中を走っている。ペルセウスがアテナから貰った鏡だ。メドゥーサを直接見た者は石になる。だからペルセウスは鏡に映しながら怪物を殺したのだ。
 石。色様々な石。青いのや、茶色いのや、緑色や、きざきざのついたのや、丸いのや、みんな、メドゥーサの首を見て石になった馬鹿な奴等だ。だからこれはみんな昔は人間だった。この茶色くてふくれ上がったのは、暴君ポリュデクテースだ。
 古い壊れた博多人形の折れた首。顔面の塗が半分ほど剝げ落ちて、男とも女ともしれぬ異様な表情に見える。これがメドゥーサの首だ。今ではもう人を石に変える力はない。しかしもし僕がその呪文を発見したなら、石に変えることができるかもしれない。」
(『夢見る少年の昼と夜』 一部表記を変更しております)

太郎にとっては、懐中時計の鎖、貝、石、人形の折れた首はみんな物語を持つ特別な宝物なのです。

本の世界は現実よりももっと現実


さて、そんな太郎は、引っ越しの書類を提出するために、夏休みの学校に出かけます。

夏休みが過ぎたら、もう太郎はこの学校には行きません。神戸の学校に転校することになるのです。

太郎が職員室に行くと、担任の村越先生がやってきました。

村越先生は、開襟のワイシャツからむくむくした身体がはじけ出そうなほど太って大きな人で、太郎は村越先生を見たとたん、そら、サムソンが来た…と思います。

職員室にはキレイで若い女性の青山先生もいました。

母を早く亡くしていた太郎は、青山先生のことを聖母マリアだと思っていました。

しかし、太郎との別れをしんみりと惜しんでくれた青山先生は、太郎が職員室から出ていったとたん、花火のように甲高い笑い声を廊下まで響かせます。

その笑い声を聞きながら、太郎は思います。

だからオトナは嫌なんだ。もう笑ってる。今さっき、悲しそうな様子でお別れを言ってくれたのに。青山先生はひょっとしたら、ダリラかもしれないな。騙されては駄目だとサムソンに教えてやろうか。
(『夢見る少年の昼と夜』一部表記を変更しております)

その後、太郎は友達のアブクちゃんの家に寄ります。そして、アブクちゃんに大好きなギリシャ神話の話をしてやります。

ところが、アブクちゃんの姉の好子さんが太郎の話の腰を折って、邪魔ばかりしてくるので、アブクちゃんは腹を立てて、好子さんにアンドロメダみたいに鎖で縛っちゃうぞ、とおどかします。

それを聞きながら、太郎は思わずこう思うのです。

 もし好子さんをアンドロメダみたいに縛っちまったら、好子さん泣くだろうか。生意気だから少しくらい苛めてもいい。女の子を苛めたら面白いだろうな。一遍でいいから苛めてみたいな。しかし、ペルセウスはアンドロメダを助けたのだ。苛めたフィネアスは石に変えられてしまったんだ。
(『夢見る少年の昼と夜』一部表記を変更しております)

そんなことを考えた太郎は、アブクちゃんに好子さんをおどかすのはおやめよ、と言って、アブクちゃんの家を出ました。

そして、大好きなギリシャ神話の本を読み始めます。

太郎が今凝っているのはアルゴ船と金羊毛との話だ。その前はペルセウスだった。その前はピーターパンで、その前が乞食物語、その前が青い鳥、その前が千夜一夜。その前が小川未明とアンデルセン。いつでも現に読んでいる本の世界が、現実よりももっと現実になるのだ。
(『夢見る少年の昼と夜』)

本の世界が、現実よりももっと現実になる。これはいったいどういうことなのでしょう。もっと深く考えてみましょう。

ギリシャ神話が太郎の世界を形作る

木刈に向かって広げられた両手
太郎は、缶の中の宝物を大事にしています。そして、その缶の中にある青や、茶色や、緑の石コロのことを全部、メドゥーサを見て石に変えられてしまった人間だと考えています。

お鹿さんみたいな常識のある大人から見たら、それはただの石であり、そんなものは太郎の空想に過ぎないと笑うことでしょう。

でも、お鹿さんにとってはただの石コロにすぎなくても、太郎にとっては確かにその石コロは、メドゥーサを見て石に変えられてしまった人間達なのです。

太郎にとっては、確かにそれが現実なのです。

『ヨガ・スートラ』には、私達の心が、私達自身の世界を作っているということが書かれています。

この世界の全ては、私達の心が映し出したものなのです。

だから、キレイで澄んだサットヴァの心には世界は美しく映るし、汚れて濁った心には世界は歪んで映ると、パタンジャリは語っていますよね。

みんなが現実と思いこんでいるもの、それは一体何でしょうか。

現実は1人1人にとって違うのです。

お鹿さんの現実と、太郎の現実と、アブクちゃんの現実は、みんなそれぞれ違います。

だから、お鹿さんの世界では、缶からの中の石コロにすぎなくても、太郎の世界ではそれは、メドゥーサによって石に変えられてしまった人間達となるわけです。

「現実」というものはない。この世界は全て、自分自身の心が映しだしたものなのだ…。

ヨガ・スートラには、そう書かれているわけですが、『夢見る少年の昼と夜』はまさしく、そのことを物語にしたものだと言えるでしょう。

太郎少年は寂しい少年です。

お母さんは亡くなっていますし、お父さんは夜の縁日に太郎を連れていってやれないほど多忙で、しょっちゅう転勤しています。

転勤していては友達もなかなかできませんし、それでなくても太郎は人見知りするたちだと書かれていますから、余計に友達は少ないでしょう。

ですが、ギリシャ神話に読みふけり、心を豊かにすることで、太郎の世界はいくらでも広がっていきます。

本で豊かになった太郎の心が映す世界では、道端に落ちている石コロは、昔、メドゥーサの首で石に変えられてしまった人間達ですし、博多人形の折れた首は、人間を石に変える力を失ったメドゥーサの首です。

太郎が呪文を見つけさえしたら、そのメドゥーサの首は、また人間を石に変える力を持つかもしれないのです。

そんな世界は、なんとドキドキワクワク、スリル満点なことでしょう!

太郎の世界がそのようにドキドキワクワクするロマンチックなものとなっているのは、太郎の心が本で満たされているからというだけではなく、まだ10歳のサットヴァに近い心を持っているということも大きく関係しているでしょう。

澄んだ心は、世界を豊かにするのです。

福永武彦の小説は、ある永遠なもの、ある純潔なものをいつも追い求めて捉えようとしているもののように思えます。

そして、それこそが芸術家がいつも追い求めているものですが、それはまたヨギーが求めているものといえるでしょう。

福永武彦にちょっとでも興味を持った方は、ぜひ読んでみて下さいね。きっと、あなたのお気に入りの1冊が見つかることと思います。

参考文献:『夢見る少年の昼と夜(2017年)』福永武彦(小学館)