橙色の布をまとった修行僧のイラストとシッダールタのタイトル

シッダールタ ~真我への道~

皆さん、こんにちは。丘紫真璃です。
今回はヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を取り上げたいと思います。

仏教の開祖である釈迦の出家以前の本名であるシッダールタという言葉だけで、ヨガとものすごく関係がありそうな題名ですよね。

インドを舞台に、バラモンの子であるシッダールタが悟りを開くまでの物語で、ヨガの世界とそのままつながっている作品です。

ノーベル賞作家であるドイツ文学を代表する文学者ヘルマン・ヘッセが、どのように悟りの世界を描いていったのか、皆さんと共に詳しく見ていきたいと思います。

ノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセ

窓際に置かれたタイプライターとたくさんの文字が印字された紙
1877年にドイツ南部で生まれたヘッセは、4歳の頃から詩を作っていた早熟の天才児だったと言われています。

難関とされるヴュルテンベルク州立学校の試験に合格し、14歳の時にマウルブロン神学校に入学するものの、半年で脱走してしまいます。

心配したヘッセの両親は知り合いの牧師に頼んで、ヘッセの悪魔祓いをしてもらいますが、効果はありませんでした。

追い詰められた少年のへッセは自殺未遂まで図ってしまいます。

シュテッテン神経科病院で治療し、退院した後にカンシュタットのギムナジウムに入学するものの、その学校も退学してしまいます。

さらに、本屋の見習い店員になるものの3日で脱走。その体験が、のちに『車輪の下』というヘッセの代表的な作品につながりました。

その後、書店員として働いたヘッセは、27歳で結婚し、スイスのベルンに移り住んで創作をはじめます。

しばらくは平和で、その作品も牧歌的なものが多かったようですが、第一次世界大戦が始まると一変してしまいました。

非戦論を唱えたヘッセは、母国ドイツから裏切者扱いされ、戦争犠牲者慰問の過労が重なって、ノイローゼにかかってしまったのです。

離婚後、南スイスのモンタニョーラに逃れて、ユングの弟子たちの助けを借りながら精神の回復を図った後は、今までとはまるで趣の違う作品をせきを切ったように書き始めました。

その中で多産した作品の中の1つが『シッダールタ』です。

『シッダールタ』は第1部と第2部に分かれて執筆されていますが、ヘッセの芸術の最高峰とも言われるくらい有名な作品です。

舞台となったインドでも注目され、12のインドの方言で翻訳されました。

シッダールタの悩み

白い馬にまたがった人物とそれを追う男性
舞台はインド。シッダールタは、バラモンの子として生まれます。

やはり、バラモンの子であるゴーヴィンダという友と共に育ったシッダールタは、少年の頃から賢者達の談話に加わるほど賢く、この上なく美しく、両親を喜ばせる存在でした。

シッダールタを見ると、どの若い娘も恋せずにいられなかったほどだというのですから、よっぽど美しかったんですね。

このように、両親も、親友のゴーヴィンダも、町の娘達も、誰もかれもがシッダールタに感心し、シッダールタを愛していたのですが、シッダールタ自身はそんなことは少しも嬉しくなく、いつも心ひそかに不満を抱いていました。

シッダールタは、尊敬すべきバラモンをたくさん知っていた。とりわけ、けがれなき学者で、最高の尊敬に値する父を知っていた。父は讃嘆に値した。その挙措は静かで高貴だった。その生活は清らかで、そのことばは賢明だった。その額には高尚微妙な思想が宿っていた。父も、そのように博識な人も、浄福の中に生きていたか。平和を持っていたか、父も、求める人、渇える人にすぎなかったのではないか。父はたえずくり返し、渇える人として、神聖な泉で、いけにえで、書物で、バラモンの問答で渇をいやさねばならなかったのではないか。なぜ毎日、毎日あらたに、清めのために骨をおらねばならなかったのか。父の中に真我はなかったのか。父その人の心の中に源泉は流れていなかったのか。自我の中の源泉、人はそれをこそ見いだし、それをこそ自分のものにしなければならなかった! そのほかのいっさいは探索であり、まわり道であり、迷いであった。
シッダールタの考えはこうであった。これが彼の渇えであり、悩みであった。
(『シッダールタ 第1部』)

ヨガでは世界の全てのものは変化すると言われますよね。その中でただ1つだけ永遠に変化しないもの、究極のもの、永遠のもの、それがプルシャだと言われています。

先程の引用の中に出てきた真我とはプルシャのことです。

真我に到達することが解脱したということなのですが、シッダールタの目標はそれだったのです。

真我とは何か?
それはどこにあるのか?
どのようにすれば自分は真我を知ることができるのか?

それがシッダールタを悩ましている事だったのです。

シッダールタの父はバラモンで、最高に賢い賢者でした。でもその父でさえ、真我とは何かという肝心のことはわからず、解脱に至っていませんでした。

シッダールタの周りにたくさんひしめいていた賢者達全てが、解脱に至っていなかったのです。

ここにいても真我を見出すことはできないだろうと思ったシッダールタは、家を出ようと決めます。

巡礼の苦行者、沙門になろうと思ったのです。

沙門になっても見いだせない

橙の衣をまとい、川の側の木の元で瞑想する男性
シッダールタは、親友であるゴーヴィンダと共に巡礼の苦行者である沙門になる道を選びます。

そこで、衣服はみんな貧しいバラモンに与えてしまい、腰巻と土色の縫っていない上っ張りだけをまとい、断食をし、修行に努める日々を送りました。

そうした修行をする中で、シッダールタは美しく着飾った人々を見ると軽蔑に口をゆがめるようになります。

町には様々な人がいました。死者を嘆き悲しむ喪中の人々や、身売りしようとする女、病院のために骨をおる医者、愛し合う恋人達、幼児に乳を与える母親達。

しかし、シッダールタにとっては、どれも見るに値しないものでした。

そんなものは全て、いずれは変化してしまう幻であり、真我とは関係ありませんでした。

シッダールタが求めているのは変化してしまう世界の中でたった1つだけ永遠に輝くもの、究極のもの、真我だけだったのですから。

シッダールタの前には一つの目標が、ただ一つの目標があった。それは、むなしくなること、渇えから、願いから、夢から、喜びと悩みからむなしくなることであった。自分自身から死に去ること、もはや我ではなくなること、むなしくなった心で安らぎを見い出すこと、我をむなしくした思索の中で世界の驚異に胸を開くこと、それが彼の目標であった。いっさいの自我が克服され、死んでしまったら、心の中のあらゆる執着と衝動が沈黙したら、そのときこそ究極のものが、もはや自我ではない本質の奥底にあるものが、大いなる秘密が目覚めるだろう。
(『シッダールタ 第1部』)

シッダールタは真我を求めるために、自分を殺そうとしたのです。

食欲、性欲、生命欲、その他さまざまな自分の欲望を全て断ち切り、殺してしまい、失くしてしまおうとしたのです。

そうして自我を完全になくすことができた時に、真我を見出すことができるのではないかと、シッダールタはそう考えていたのです。

そのために、シッダールタは修行を積み、断食を行い、呼吸をほとんど減らす訓練を行い、
自我をなくしてしまおうと苦行を重ねます。

3年間の月日が流れ、シッダールタはどの沙門も感心するほど、完全な修行を積みました。

瞑想も、断食も、呼吸の停止も完全に身につけてしまいました。しかし、それでも真我を見出すことはできなかったのです。

シッダールタは、親友のゴーヴィンダにこう話します。

瞑想とは何か。肉体からの離脱とは何か。断食とは何か。呼吸の停止とは何か。それは自我からの逃避、我であることの苦悩からのしばしの離脱、苦痛と人生の無意味にたいするしばしの麻酔にすぎない。そんな逃避や、しばしの麻酔なら、牛追いだって宿屋で数杯の酒か、発酵したヤシの乳液を飲むとき、見いだすのだ。それで牛追いは自分を忘れ、生活の苦痛を忘れ、しばしの麻酔を見いだす。
(「シッダールタ 第1部」)

そして、シッダールタは沙門の中には60歳や70歳にもなる年配の人もいましたが、その人達でさえ、真我を見出さず、解脱に至っていないことを指摘し、ここで沙門の修行を積んでいても、真我を見出だすことはできないのではないかと思うと語ります。

解脱は教えてもらうものではなく、見出すもの

夕日に映る寺院と男性の影
そんな時、解脱に達したというゴータマの噂がインド各地に流れ、沙門の中で修業しているシッダールタ達の耳にも伝わります。

2人は、その素晴らしい人の話を聞きに行くことにし、沙門の仲間に別れを告げ、ゴータマのいる地に向かいました。

そこで、ゴータマを目にしたシッダールタは、この人こそ解脱に達した人だと一目見たとたんにわかります。

彼は注意ぶかく、ゴータマの頭を、その肩を、足を、静かにたれている手を見つめた。その手の指の一つ一つの関節が教えであり、真理を語り、呼吸し、におわせ、輝かせている、と思われた。この人、この仏陀は小指の動きに至るまで真実だった。この人は神聖だった。シッダールタはこの人ほどひとりの人をあがめたこと、愛したことはなかった。
(「シッダールタ 第1部」)

ゴータマは多くの聴衆の前で教えを語り、その教えに感動したゴーヴィンダはすぐさま、ゴータマの弟子になることを決めます。

けれども、シッダールタは、ゴータマの弟子になる道は選びませんでした。

ゴータマこそは解脱の道を見出した唯一の人であり、自分が目標としている真我を見出した人でした。その教えは素晴らしいものでした。

けれども、シッダールタが本当に知りたい肝心の点、つまり、どのようにしたら真我を見出すことができるかということについて、ゴータマは語らなかったのです。

それは語ることのできないもの、教えることのできないもの、自分自身で見出すことしかできないものなんだということをシッダールタは悟ります。

だからこそ、ゴータマの弟子になって何かを教わるのではなく、誰かに教わるのはもうやめて、自分自身で真我を見出そうと決心します。

そのために、まずシッダールタが考えたことは、食欲、性欲、生命欲のような欲望を断ち切り殺してしまうのではなく、自分の内面をよく知ろうということでした。

自分自身のことをよく知らなければ、自分自身で真我を見出すこともできないと思ったからです。

もはや思索や生活を真我や世界の苦悩で始めるようなことはしないぞ。砕かれたかけらの背後に秘密を見いだすために、自分を殺したり、切り刻んだりはしないぞ。ヨーガ・ヴェーダにも、アタルヴァ・ヴェーダにも、苦行者にも、何からの教えにも、教えを受けはしないぞ。自分は自分自身について学ぼう。自分自身の弟子となろう。自分を、シッダールタという秘密をよく知ろう。
(「シッダールタ 第1部」)

こうして、シッダールタは自分自身の秘密を知るため、さらなる道を進むというところで、第1部は幕をおろします。

そこで私もいよいよシッダールタが真我を見出す第2部は、次回のコラムにゆだねたいと思います。

参考文献:『シッダールタ(昭和57年)』著ヘルマン・ヘッセ 訳高橋健二(新潮社)