吾輩は猫であるタイトルと横たわった茶色の猫の写真

「吾輩は猫である」~猫の視点から見る人間世界~

吾輩は猫である。名前はまだ無い。

この有名な冒頭で始まる小説と言えば、みなさん、もうお分かりですよね。そう、今回は夏目漱石の「吾輩は猫である」を取り上げたいと思います。

夏目漱石を知らないという方は、日本人ならほとんどいらっしゃらないでしょう。旧千円紙幣に漱石の肖像画が掲載されていたことも有名ですよね。文豪といえば夏目漱石と誰もが思っているのではないでしょうか。

そんな夏目漱石の処女作である「吾輩は猫である」とヨガとは、どのようなつながりがあるのでしょう。これから、猫の作品をめくって、みなさんと共に考えていきたいと思います。

「ホトトギス」で大好評

夏目漱石は、正岡子規の友人が発刊した俳句雑誌「ホトトギス」に所属していました。

「ホトトギス」は俳句雑誌ですが、高浜虚子や伊藤左千夫などが小説を書いて「ホトトギス」に掲載していたのです。

漱石も高浜虚子に勧められて小説を書くことになり、「吾輩は猫である」を執筆しました。

当初は第1回のみの読み切り作品の予定だったそうですが、大好評だったため、継続して発表することになりました。

そして、1905年1月からはじまった「吾輩は猫である」は、1906年8月まで継続し、「ホトトギス」は俳句雑誌から、有名な文芸雑誌となりました。

猫の人間観察

 窓辺から外を見ている茶色の猫

「吾輩は猫である。名前はまだない」
(「吾輩は猫である 1」)

有名な冒頭ではじまるこの小説の語り手は、名前のない猫です。

この猫氏は捨て猫だったのですが、たまたま竹垣の崩れた穴を見つけ、その穴からのそのそとある家の敷地内に入りこみます。そして、その家の下女のおさんと遭遇します。

「(おさんは)吾輩を見るや否やいきなり首筋をつかんで表へ放り出した。いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた。しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢出来ん。吾輩は再びおさんの隙を見て台所へ這い上がった。すると間もなくまた投げ出された。吾輩は投げ出されては這い上がり、這い上がっては投げ出され、何でも同じ事を四、五遍繰り返したのを記憶している」
(「吾輩は猫である1」)

その騒ぎを聞きつけたこの家の家主である英語教師の珍野苦沙弥先生は、「そんなに家にいたいなら置いてやったらよかろう」と言います。

そういうわけで、猫氏は苦沙弥先生の家の猫となりますが、苦沙弥先生は漱石がモデルであり、語り手の猫氏は漱石の家の猫がモデルだったようです。漱石家の猫も名無しだったそうですよ。

それはともかく、名無しの猫氏は苦沙弥先生の家を自由にウロウロし、苦沙弥先生や妻君、下女のおさんや、子ども達、珍野家を出入りする美学者の迷亭や元教え子の水島寒月、新体詩人の越智東風や、八木独仙、近所の実業家の金田鼻子などの人間達の様子を観察し、その様子を実に饒舌に、流れるように語っていきます。

猫が語るからこそ

茶色い猫の後ろ姿
「吾輩は猫である」の1番大きな特徴はなんといっても、猫が語っているという点ではないでしょうか。

苦沙弥先生やその周りの人々のことを、誰か人間が、あるいは三人称で語ったならば、こうも面白くならなかったのではないかと思うのです。

人間が語った場合、その視点はあくまでも人間的です。人間が見るようにして、苦沙弥先生達のことを見つめ、そのことを語ります。

三人称でも同じでしょう。その視点はあくまでも人間的で、それ以上にはなりません。

ところが、猫が語るとなった途端、その視点は人間の枠を飛び越えて、猫の視点になります。人間世界を、猫の視点で見つめ、猫の感想で物事を語っていきます。

例えば、人間はなぜ、皮膚の上にあんなにいろいろな服をとっかえひっかえ着ているんだろうと猫氏が不思議がるくだり。

「猫のように毛皮を着ていないから、毛皮1枚で過ごすという芸当はできないにせよ、あんなにいろいろな服をやたらに着替えるのはいったいどうしてなんだろう?」と語ってから、次に人間が頭の毛をいろんな形に刈り込むことについて、次のように述べています。

「第一頭の毛などというものは自然に生えるものだから、放って置くが尤も簡便で当人のためになるだろうと思うのに、彼らは入らぬ算段をして種々雑多な恰好をこしらえて得意である。」
(「吾輩は猫である6」)

「わざわざ生えてくる毛を丸坊主にしてみたり、頭の毛を左右に等分してみるかと思ったら、73で分けて見たり、5分刈り、3分刈り、1分刈りと、こんなにいろんな頭にしてみるなんて、いったいどうしたわけだろう」と猫氏は不思議がり、さらにこう切り捨てます。

「彼らのあるものは吾輩を見て時々、あんなになったら気楽でよかろうなどというが、気楽でよければなるが好い。そんなにこせこせしてくれと誰も頼んだ訳でもなかろう。自分で勝手な用事を手に負えぬほど製造して苦しい苦しいというのは、自分で火をかんかん起して暑い暑いというようなものだ。猫だって頭の刈り方を20通りも考え出す日には、こう気楽にしておられんさ。」
(「吾輩は猫である6」)

まさしく、猫ならではの感想です!

人間ならば、髪の毛をカットしたり整えたりするのは当たり前だと思ってしまうところを、「そんな余計なことをしているから忙しい、忙しいと忙しがることになるんだろう」と、猫氏はハッキリ切り捨てていくのです。

人間の中にある当たり前を、猫的視点からズバリと解き放っていくのです。これはもう猫にしかできない芸当と言うべきでしょう。

読者である私達は、猫的視点で人間世界を見つめ直すことで、当たり前と思っていたものは決して当たり前ではなく、かえっておかしいことかもしれないという新しい発見をすることができるのです。

股倉からのぞいてみる

こちらを見る緑の目をした茶色い猫
猫氏自身、発想を転換する大切さを次のように述べています。

「天の橋立を股倉から覗いて見るとまた格別な趣が出る。シェークスピアも千古万古シェークスピアではつまらない。たまには股倉から『ハムレット』を見て、君こりゃ駄目だよ位にいう者がないと、文界も進歩しないだろう。」
(「吾輩は猫である7」)

シェイクスピアは、もちろん素晴らしいものです。ですが、みんなが素晴らしいと言っているからと言って、シェイクスピアは素晴らしいと思い込むことはないのです。

誰か1人くらい、シェイクスピアなんてダメだと切り捨てる人がいたっていいのです。

固定観念にガチガチにとらわれていては、真理を悟ることはできません。

全ての固定観念から自由になり、曇っていた眼が開かれた時、プルシャを見ることができるのだとヨガでも教えられています。

「吾輩は頭を以て活動すべき天命を受けてこの娑婆に出現したほどの古今来の猫」だと自任している猫氏の導きによって、私達はガチガチになった固定観念から自由に解き放ってもらえます。

そうして、人間世界を猫の眼で見直し、固定観念を次々に解き放って、新しい視点が開けていくところに、「吾輩は猫である」の面白さはあると言ってもよいでしょう。

もちろん、それだけではありません。

猫のあふれるような饒舌な語りに負けず劣らず、苦沙弥先生の友人である迷亭の饒舌な演説には笑わずにいられませんし、苦沙弥先生や妻君のやり取りもニヤリと笑ってしまいます。

鋭い観察眼を光らせ、驚くほどリアルで正確な描写力を駆使し、猫になりきって「吾輩は猫である」という名作を書ききった漱石には、さすが日本の文豪としてお札にのるだけのことはあると脱帽せずにはいられません。

漱石の数々の作品の中で、皆さんはどれがお好きでしょう?

様々な意見があると思いますが、私のイチオシは断然、「吾輩は猫である」です。

難しいことをゴチャゴチャ考えないでも楽しく面白く読めますので、どうぞ気軽にページをめくってみて下さい!

夏目漱石著 『吾輩は猫である』岩波文庫(1990年)