「愛とは何だろう?」と考えてみる瞑想

愛し合うのは誰と? 何と?

昔々、あるところに二つの命がありました。それは性別も年齢も、それどころかどんな命かもわかりません。でも、二つの命はお互いを受け入れ、愛し合いました。

「あるところに、おじいさんとおばあさんがいました」…は定番だけど、愛の形を考えた時、この二つ(いや、もう二つかさえもわからないのだけど)が何を指すのかがわからないな、と思ってしまう時代が来たのではないだろうか?

それは人と人かもしれないし、人と植物かもしれないし、植物と鉱物かもしれない…。生まれてから100年たった古道具が付喪神(つくもがみ)になるなら、古民家なんてどれも命が宿ってそうだし、山や川や大木、大岩なんて確かに命があるだろう。風や光や炎や。そういうエネルギーを総じて神と言っているわけだが、そういうものと愛し合うこともできる…。

ヨガをやっていると、そんな思考になっていくのではないだろうか。

とすると、愛とは何だろうか?

愛とはエネルギー交換?

愛とはお互いのエネルギーを交換すること…とまず頭に浮かんできたが、それもちょっとなんとなく違う気がする。交換というなら交感のほうが合っている気がする。いや、交換も交感も物理的な感じがするので、もっと溶け合って混じる感じ。最初はマーブルから、だんだんと元の色がわからないほどに。

例えば、当分の黄色と青が混ざり合うと緑ができ上がるが、これはもう最初の色とは違うものになっている。そんな感じ。命同士の愛。

ただ、冒頭で書いた例えば人と植物の愛は、そういうことではなく、意識の混じり合い、意識同士が理解し、溶け合うこと。言葉や体や時空を超えた、意識の中の、目に見えない存在としての愛を感じ合うということだ。こうなると、もう命さえも関係ないかもしれない。

愛とは雰囲気

何だかわからないけれど、うれしくてしょうがない時、とても切ない時。それは、あえて言葉にすれば、これらが当てはまるだろうけれど…という程度のチョイスで、感情としてはもう言葉を通り越してはいないだろうか。そういう、ハートチャクラが膨らんでいくのが止められなくなったような、言葉にできない何かーーエネルギーの広がり(膨らみ)が、愛なのではないだろうか?

その感覚を共有できる対象は森羅万象すべてだろう。こちらが思いを膨らませた時、相手はそれをきっと感じ取っているから(意識にピン止めするかは別だけど)。ただ、いろいろ複雑になってしまった人と違って自然は理屈っぽくないから、愛を愛として受け止められる。だから、人間以外のものと愛し合うのはすごく簡単で、とても切なくて、一瞬一瞬を実感できるものなのではないだろうか。

半分のハートチャクラ

以前、『Yogini』でおなじみの小山一夫先生は、「ハートチャクラは半分が自分の胸の中、半分は外に出ている。それは相手と共有するものだから」と話してくれた。半分外に出たハートチャクラ同士が溶け合う時、命が愛し合う。2個が1.5個になってつながって分かち合う。膨らんで広がってあふれ出た半分を、同じような思いのハートと溶け合わせる

同じように、コミュニケーションのチャクラ「ヴィシュッダ」も、半分外に出ているという。相手と分かち合うものは、その半分同士が共鳴しないと育たないということだ。言い換えれば、共鳴する部分を一緒に育んでいくというとも。最近は、自分の中から半分をあふれ出せないぐらいストレスフルになっていることも、よくあるけれど…。

愛とはエネルギーの気づき

ここまで一人女子会でつれづれ思いを巡らせてきたけれど、詰まるところ、愛とは「それもこれ、彼も我。これもそれ、我も彼」ということに気づくことなのではないだろうか。だから植物や鉱物や、光や風や、そういうもののエネルギーに、顔に触れる空気に、自分自身が持っているエネルギーが溶け合うことができた時、「あー、私はコレだった」と思い出す。そしてそれが何ともうれしいという思い。

人間同士でも同じで、相手のエネルギーと自分のエネルギーが溶け合うことと、その心地よさに、意識のどこかで気づいたことを、愛と感じるのではないだろうか。それを最初に感じるのが、物理的な自分より少し先まであるハートチャクラやヴィシュッダチャクラの半分部分。

目に見えない世界

目に見えない世界はないわけではなくて、それは100%詰まっている。白い部分にも色を塗れば見えてくるように、ただ、今気づいていないだけだ。

愛はいつもそばにあって、自分では気づかないすきまにも入り込んでいる。それに全部気づいたら、世界は100%愛だとわかるのだろう。世界は100%自分だとわかるのと同じように。つまり、愛とは自分そのものだということなのではないだろうか。

Text:Yogini編集部