新しい冒険を求める西洋の哲学と、内側の真理を求めるヨガ哲学

グローバルな社会になり、世界中の様々なエンターテイメントを自宅でも楽しめるようになりました。

それによって、違う国の人たちがどのようなものの考え方をするのかに触れる機会も増えてきたのではないでしょうか。もしくは、人権問題などにおいて、世界共通の価値観も生まれてきているのかもしれません。

哲学の世界では、たびたび東洋的な物事の見方と西洋的な思考との違いについて議論されます。
インドで生まれたヨガは、まさに東洋のエッセンスが詰まっています。

そんなヨガの世界でも、現代では世界中の人に愛されて、様々な国の価値観が混ざって新しいものが生み出されています。

今回は、西洋と東洋の哲学の違いを整理してみたいと思います。

真っ暗な大海原を航海する西洋哲学と、1点の真理に向かう東洋哲学

本来であれば、「西洋哲学」「東洋哲学」と大雑把な分け方をするのは危険なのかもしれません。

同じ日本人であっても、さまざまな意見を持った人がいます。

しかし、哲学の世界で大きな流れを見ていくと、西洋的な考えと東洋的な考えは対極の方向に向かっていくことが分かります。

このような思考のロジックの違いを知ると、自分と全く違う考え方をする人がいることも、すんなり理解できるようになってきます。

「無知の知」で見る西洋と東洋の違い


西洋哲学はギリシャ哲学から続いています。

民主主義都市国家が繁栄したギリシャでは、選挙によって政治家を決めていました。そのため政治家たちは、本質的なことよりも民衆を納得させるための巧妙な話術を身につけるようになります。

なんだか現代社会と全く変わらない気がしますね。

その状況に意義を唱えたのが最も有名な哲学者であるソクラテスです。

ソクラテスは何かすごい真理を解いたわけではありません。逆に、真理を説く人を全て疑いました。

そして、詭弁(きべん)によって民衆を惑わす政治家たちに論争をしかけ、徹底的に質問を繰り返します。

「正義のために戦う」と言えば、「正義っていったいなんですか?」といった具合に聞き、相手が1つ答えると「どうしてそれを断言できるの?」とさらに質問を繰り返します。

すると、どれだけ話術が達者な政治家であっても、どこかで口篭り、矛盾した発言をしてしまいます。

相手の隙が見つかると、そこで一気に反論し、相手が本質を理解できていないことを暴いてしまいます。

そしてソクラテスが見つけたのか「無知の知」という有名な概念です。

本当に正しいことは?

それを知っている人は1人もいないということを発見したのがソクラテスです。

西洋哲学は、「誰も真実を知らない」というところからスタートし、長い歴史をかけて現在まで様々な理論を組み立てながら揺るぎない真理を探し続けています。

そもそも、本当に真理なんてものがあるのか、それさえ誰も知りません。暗中模索の中で、勇敢に航海を続けているのですね。

そんな西洋哲学と全く逆の道を辿って発展してきたのが東洋哲学です。

現在まで続く東洋哲学の中心地はインドで、ヨガもその流れの一部です。

ヨガ哲学では「無知とは、全ての苦しみを生み出す煩悩(クレーシャ)である」と教典『ヨガ・スートラ』の中で定義します。

「私たちは無知である」という考えは同じですが、真理に対してはとてもポジティブに必ず有ると断言します。

つまり、私たちは無知だけど、修行によって必ず見つかると断固とした信頼を持っています。

インド哲学の土台になっているのは、紀元前1,200年頃に発生した『ヴェーダ』という聖典です。このヴェーダは天啓聖典と呼ばれます。

天啓聖典とは、神々が直接バラモン(祭祀)に与えた言葉、つまり天から降ってきた言葉であり、それが真理であることは疑いがありません。

つまりインドの哲学は、3,000年以上前に真理がすでに発見されていたのです。

では、答えが最初に与えられたインドの哲学は、どのように発展したのでしょうか。

ヴェーダは真理であるけれど、神様の言語であり悟っていない凡人である私たちには理解が難しいものです。そのため、学者たちはヴェーダに書かれた真理を必死で解読して解説書を書きます。

また、ある日突然別の聖者が生まれることもあります。

例えば、仏教の開祖ゴータマ・ブッダやジャイナ教の開祖マハーヴィーラのように、修行の結果、絶対的な悟りに到達したカリスマが現れることがあります。

その場合も、ブッダやマハーヴィーラの教えは、現代まで揺るぎない真理として語られています。

時代が経つにつれて同じ宗教の中から様々な流派が生まれることがありますが、それらは「ブッダが言いたかったことはこうに違いない」という解釈が複数生まれたからであり、ブッダ自体を疑うことはありません。

まだ誰も見つけたことのない真理を探す西洋哲学と、すでに存在している真理に到達したいと精進をかさねる東洋哲学、こうやって比べると面白いですね。

答えは内側にあると信じるヨガ哲学


インド的な思想のもう1つの大きな特徴は、答えを常に自分の内側に求めることです。

インド哲学で最も有名な格言に“TAT Tvam Asi”(汝はそれである)というものがあります。

「それ」とは宇宙全ての原理ブラフマンを意味しています。

同様に、『ヨガ・スートラ』では、下記のように説きます。

イシュワラ(自在神)とは、煩悩、カルマ(行為)、カルマの結果、カルマへの依存に1度も触れていない特別に純粋なプルシャ(真我)である。(1章24節)

プルシャ(真我)とは、私たちの内側に存在する本質の部分、霊性的なものです。

インドでは答えを外の世界に求めません。常に瞑想し、深い内観をし、自分の内側にある真理を探します。

答えはすでに私の内側にある。という絶対的な信頼が存在し、真理とは究極の自分探しの先にあると考えます。

理論重視の西洋哲学と、感覚重視の東洋哲学

また、西洋と東洋の哲学の大きな違いとして、理論重視か感覚重視かと言うこともできます。

西洋哲学では、どこまでも理論で答えを突き詰めようとします。

どんな素晴らしい説が見つかったとしても、反論ができてしまう隙があればそれは真理と言い切れません。

それに対してインド哲学では、どれだけ緻密な議論を重ねたとしても、最終的な真理の説明は感覚的です。

自己の本質であるアートマンやプルシャがあるのかどうか?

この証明も、理論だけでは不充分であり、最終的には瞑想によって自分自身が体験しないと理解できないと考えます。なぜならば、真理というのは言葉で証明できないものだからです。

言語で話すことのできるような特徴は、言葉で説明できてしまう時点で個性という制限があります。

しかし、絶対的な真理は無限のものであるべきです。そのため、言語による理解では完成しないと考えます。

哲学とは思考で考えるものでありながら、最終的には「考えるな、感じろ」という答えに到達するのが面白いところです。

様々な価値観の中で自分の快適さを見つける


現在は多様性の時代と言われ、様々な主義主張を知ることができます。

そんな中で、「これは違うのではないか」とジャッジしてしまいたくなることもあるかもしれませんし、「何が真実か分からない」と悩んでしまうこともあるでしょう。

同じようにヨガを練習していても、違いが現れます。

ある人は伝統的なヨガを重んじ、先生の考えを絶対的に信用して師事します。一方で「特定の先生を盲信するのは怖いけれど、今までの良い先生の良いところを組み合わせて自分で最善を築こう」とする人は西洋哲学的なアプローチかもしれません。

また、ヨガを始めるときにも「具体的な効果を説明してもらわないと興味が沸かない」という人もいれば、「なんとなくスッキリできそう」と感覚派の人もいます。

ヨガという同じ練習をしている中でも、向き合い方や感じ方は人それぞれです。

自分がヨガにどのように向き合っているのかを考え直すことで、自分にとっての快適な場所が見えてきますね。

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