手を胸に当てて空を見上げる黒いカーディガン姿の女性

ヨガで考える寿命とは?

自身や親しい人の寿命について考えることはありますか?

ヨガの生まれた国インドでは、今でも死が身近な国です。

都会の中でも野良犬などの野生の動物が多く生活しているため、動物が死期を迎える瞬間を目の当たりにすることが頻繁にあります。交通事故を目撃することも多く、危険な場面を目撃することもあります。

死が身近な国で発生したヨガでは死についてどう考えているのか、古典教典の言葉を参照しながら考えてみましょう。

誰にでも寿命があると認識する


インドでは、命の長さを決める寿命があると信じられています。

生死観については、昔からの考えが浸透しています。“人には誰にでも寿命がある”ということです。

自分の体を大切にすることで、健康年齢を伸ばすことはできます。しかし、寿命自体を変えることはできません。

そもそもヨガ哲学では、この身体が自分の生命なのだとは認識していません。

身体は魂を入れる器のようなものだと考えられています。

人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。(バガヴァッド・ギーター2章22節)

汚れたり穴が空いたりしている洋服を着ると不快なのと同様に、体が不健康だと私たちは不快に感じます。

身体は、この世界で様々な経験をするために与えられた器です。

器自体が自分ではないけれど、器がないと体験を得ることができません。
川の向こう岸に到達したいのに、船底に穴が空いていては川を渡ることができないのと同じです。

安全に進むために、常にメンテナンスを怠ってはいけません。

しかし、船はいつか必ず壊れてしまいます。老朽化を受け入れられないと、無理をして古い船を使おうとして、自分も一緒に沈んでしまいます。

生きている間は大切に身体を整えますが、いつか寿命を迎える時には感謝して手放すことを受け入れなくてはいけません。

大切にするけれど、執着はしない。そのバランスがとても難しいですね。

寿命を決めるのはアムリタ(甘露)


それでは、寿命を決める要因はなんなのでしょうか。

ヨガ哲学では、体内のアムリタ(甘露)の量が寿命だと考えられています。

アムリタは映画アバター2でも出てきたので、聞いたことがある人もいるかもしれません。

アムリタは古代から不死を与える飲み物としても知られています。

ハタヨガでは、アムリタは最初から体内にあり、その残量が寿命なのだと説きます。

アムリタは頭部にありますが、喉元にあるヴィシュダ・チャクラからポトポトと1滴ずつ腹部に落ちます。

腹部のマニプーラ・チャクラの位置にはアグニと呼ばれる炎が燃えています。

アムリタがアグニ(炎)によって燃やされることで生命力が生まれます。

体内に生命力が満ちている間は活動できますが、アムリタが使い切られてしまうと生命は失われます。

アムリタ(甘露)を守ることで寿命が長くなる

ハタヨガ・プラディーピカでは、このアムリタ(甘露)を下方に落とさないことが死を逃れる方法だと説きます。

そのために、ジャーランダラ・バンダという喉の引き締めを行います。

ジャーランダラ・バンダはノドのひきつめを特徴とするもので、これを行うならば、かの甘露は胃の火の中に落ちこまない。また、その流れる道を間違えない。(ハタヨガ・プラディーピカ3章72節)

喉元の締め付けであるジャーランダラ・バンダを締め付けることには、2つの大きな効果があります。

1つ目は、腹部のアグニ(炎)が生み出した生命力を失わないことです。

通常は、呼吸をするときに吐く息と一緒にエネルギーが体外に抜けていってしまいます。

しかし、喉元のバンダ(締め付け)を行うことによって、息を吐いてもエネルギーが上に逃げず、体内に循環するようになります。

2つ目は、アムリタ(甘露)が腹部のアグニ(炎)に落ちることを防ぐことです。アムリタが燃えて無くならなければ、寿命が尽きることがありません。

アーサナによってアムリタ(甘露)を守る


バンダでアムリタを守る方法も有名ですが、現代のヨガではアーサナ(体位)の練習によってもアムリタを守ります。

よく言われているのは、シールシャ・アーサナ(頭倒立のポーズ)やサルワーンガ・アーサナ(肩立ちのポーズ)を行うと、不死になるということです。

こそれは、ハタヨガ教典の説明が有名です。

神々しい姿の月から流れ出る甘露はことごとく日が飲んでしまう。そのために肉体は老衰するのである。
ヘソが上にあり、口蓋が下に来る姿勢をとる時、日は上にあり、月は下にくる。このヴィパリータ(逆転)という名のカラニー(しぐさ)はグルの口づたえで学ばなければならない。(ハタヨガ・プラディーピカ3章77、79節)

抽象的な表現が含まれていますが、月はアムリタ(甘露)のある位置を意味し、日は腹部の炎です。

物理的に、頭が下で腹部が上にくる逆転のポーズを取ることによって、死や老いを避けることができると考えられています。

一説によると、毎日2時間シールシャ・アーサナ(頭倒立)を行うことによって、不死を得ることができるそうです。

なかなか現実味がないですが、毎日逆転系のアーサナを行うことによって、若々しさを得られるのは間違いなでしょう。

死ぬことを受け入れながら精一杯生きる


古代のヨガでは、不死を目指すようなものもありましたが、それでも身体には寿命があることは受け入れなくてはいけません。

クリシュナ神は、死を受け入れることを説きます。

「生まれた者には死は必定であり、死んだ者には生は必定であるから。それ故、不可避のことがらについて、あなたは嘆くべきではない。(バガヴァッド・ギーター2章27節)」

世の中には、どうにもならない必定なことが数多くあります。

暑いのは嫌いだけど夏は来るし、空を飛びたくても人間に翼が生えてくることはありません。

当たり前のこと、どうにもならないことは嘆くべきではないとクリシュナは説きます。

では、いつか死んでしまうから、この人生は意味がないものなのでしょうか。それも違います。

今与えられている身体を持って得られる体験は、何よりも貴重なものです。だからこそ、目の前に与えられたことを精一杯行うことがとても大切です。

あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また、無為に執着してはならぬ。(バガヴァッド・ギーター2章47節)

「無為」とは、自分のやるべきことを放棄して、何もしないことです。消えてしまうから無意味というのは大きな間違いです。

美しい音楽を奏でても、それを聞けるのはその瞬間だけ。何年も練習してやっと演奏できた曲であっても、その瞬間の演奏が終わったら、その音楽は消えてしまいます。

同じ音楽は2度と奏でることができません。

しかし、その音楽を聴いて感動した人たちの心には大きな幸せが満ち溢れます。だから、音楽を志す人は何十年でも練習を続けます。

私たちの幸せは、一生所有できるものではありません。その瞬間ごとの喜びの積み重ねです。

それがわかっていれば、いつか終わってしまう人生であっても、味わい幸福を感じることができます。

寿命と向き合うことは生と向き合うこと

死というネガティブなものに向き合うことは簡単ではありません。

しかし、終わりがあるからこと生命は輝きます。限られた時間だからこそ、大切に生きることができます。

自分には限られた寿命が与えられていることを意識することで、生きることについて理解できるのではないでしょうか。

ヨガジェネレーション講座情報

ヨガ哲学に興味のある方におすすめ