タイトルとアンネフランクのモノクロ写真

アンネの日記 ~絶望の中でも善を信じる~

こんにちは!丘紫真璃です。今回はおそらく世界で一番有名な日記である、「アンネの日記」を取り上げたいと思います。

「アンネの日記」を読んだことはなくても、その題名を知っているという方がほとんどでしょう。第二次世界大戦中に生きていたドイツ系ユダヤ人の少女アンネ・フランクが、1942年6月~1944年8月まで書き綴った日記です。

アンネは、アムステルダムにある父の会社の4階建ての建物の中に作った隠れ家の中で身をひそめる息苦しい生活を送りながら、自分の心の内面を鋭く書き綴りました。

しかし、過酷な状況の中で語ったユダヤ人少女の言葉と、ヨガにはどんなつながりがあるのでしょう?これから、皆さんと探っていきたいと思います。

アンネ・フランクとは

アンネフランクが隠れ住んでいた建物の入り口
アンネ・フランクは1929年6月12日にドイツで生まれます。4歳までフランクフルトで暮らしますが、反ユダヤ主義を掲げるヒットラーが政権を取ったことで、両親と姉のマルゴーと共にオランダに亡命し、アムステルダムで暮らします。

しかし、1940年5月10日、中立を宣言していたオランダにドイツが侵攻したため、オランダでの一家の生活にも次第に影が差していきます。それでも、ユダヤ人中学校に通いながら、友達に囲まれて明るく過ごしていたアンネは、13歳の誕生日に、父から日記帳を贈られます。

アンネはこの日記帳に「キティ」と言う名前を付け、キティに手紙を書くような形で、日々の出来事を書き綴るようになります。これが世界的に有名になった「アンネの日記」になるのです。

アンネの日記

アンネフランクが日記を書いているところを切り取った蝋人形
皆さん、アンネの日記の出だしをご存じでしょうか。

あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話できそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね

(「アンネの日記」)

日記帳にキティと名付け、心の友キティに宛てる手紙という形で書き綴っていくアンネの日記の有名な出だしです。キティに宛てる手紙も、最初のうちはアンネの学校生活の様子や友達のこと、ボーイフレンドの事などが明るくつづられています。

しかし、1ヵ月もしないうちに、姉のマルゴーに、ナチス親衛隊SS※1から呼び出し状が届きます。

これは、アムステルダムの15歳から16歳のユダヤ人に一斉に出された召集命令で、召集された若者達は、ドイツの強制労働収容所へ送られて過酷な労働をさせられることになっていました。

この呼び出し状を受けたフランク一家は、父の事務所の3階と4階に作った隠れ家にひそみ、そこで2年に及ぶ隠れ家生活を始めます。

この隠れ家には、ファン・ぺルス一家という家族と、ブフェファーという知り合いのユダヤ人も共に暮らすこととなり、計8人のユダヤ人で共同生活を送ります。

この隠れ家での生活の様子が、アンネの日記の中に事細かに書かれていくのです。お母さんへの反抗、周りの大人達への不満、葛藤や苦しみ、悲しみや不幸や恋。

13歳から15歳の青春真っただ中を隠れ家の中で恐怖に震えながら暮らさなければならなかったアンネの暮らしぶりの様子が手に取るようにわかります。

そして、そんな過酷な状況の中で、アンネが目を見張るほどの精神的成長を見せて、たくましく強くなっていく様子を、まざまざと読み取ることができるのです。

  • ※1 ナチス親衛隊SS : Schutzstaffe (シュッツシュタッフェル、通称SS)はドイツの政党であった国民社会主義ドイツ労働者党の組織であり、創設後党内警察組織として勢力を拡大、警察組織との一体化が行われた。反ナチ派やレジスタンスの摘発、ユダヤ人狩りなどを行っていた秘密警察Geheime Staatspolizei(ゲハイメ・シュターツポリツァイ、通称ゲシュタポ)もこの傘下に置かれる。

心の支えとなったキティ

アンネフランクが日記を書いているところを切り取った蝋人形の手元
アンネは、日記の中でこんな風に書いています。

考えてみると、わたしような女の子が日記をつけるなんて、妙な思いつきです。これまでつけたことがないからというだけじゃなく、わたし自身にしても、ほかのだれにしても、13歳の女子中学生なんかが心のうちをぶちまけたものに、それほど興味を持つとは思えませんから。でも、だからといって、べつにかまいません。わたしは書きたいんです。いいえ、それだけじゃなく、心の底に埋もれているものを、洗いざらいさらけだしたいんです

(「アンネの日記」)

誰の心の中にだって、人には言えない気持ちというものがたまっていますよね。

形にはなっていないけれども、心の中に混沌としている気持ちというものを、文章という形にして日記の中に記していく。日記というものは、そういう作業であると私は思います。

そう考えると、日記とは、自分自身の心の中を形にしたものということができますね。

しかも、アンネの場合は、キティに宛てる手紙という特殊な形を取りました。アンネは自分自身の置かれた状況や、周りの人達の発言、それを聞いて自分がどんな気持ちになったのかということを、キティにもわかるように書き綴っていったわけです。

そのようにキティにもよくわかるように書くことで、アンネは自分自身の置かれた状況と、その時の気持ちをよりはっきりと客観的に把握できるようになりました。それこそが、過酷な現実を生きるアンネにとって、ものすごく大事なことだったんじゃないかなと私はそんな風に思うのです。

コロナ禍で外出制限を経験し、自由を奪われる不自由さを私達も体験しましたよね。でも、アンネ達の外出制限は、私達よりももっと過酷なものでした。

何しろ、そこにアンネ達が隠れ潜んでいることを外の人達に悟られたら、恐ろしい収容所と死が待ち受けているわけです。

昼間は絶対に窓の外には寄ってはいけないし、大きな音を立ててもいけない。来る日も来る日も、同じメンバーと顔を合わせて息も詰まるし、気持ちだっておかしくなります。

実際、隠れ家の大人達はストレスから口論が絶えなかったようですし、アンネに八つ当たり的に叱責をするということも、どうやら、たくさんあったようです。

そんな息詰まるような生活の中で、絶えず恐怖と戦いながら、アンネはキティに手紙を書き綴ることで、自分自身の心と向き合い続けました。だからこそ、アンネは過酷な生活の中で、自分を保っていられたのではないかと、私はそう思うのです。

自分自身と向き合うということは、ヨガにおいても、ものすごく重要なことだと言われます。

ヨガの最大の目的は心を安定させることなのですが、心を安定させる第1ステップは、自分自身と向き合うことなのです。

自分自身の心の動きというものをよく知ること。自分がどんな時に笑って、どんな時に泣き、どんな時に幸せを感じるのか。自分の中で最も重要なものは何か。それを知ることが心を安定させる大きな1歩なのです。

ですから、ヨガ的に見ても、アンネがキティに宛てて日記を書き続けたことは、アンネが自分を保つためにどんなに大切なことだったのかということが良く分かりますよね。

キティは、まさしく、アンネの大きな心の支えになっていたのです。

それでも善を信じる

苦しい隠れ家生活の中で、アンネは自分自身と向き合い続け、どんな不幸の中にも幸せを見出すすべを見出していきます。

その素晴らしい1節を、皆さんにもご紹介しましょう。

だれかがふさいだ気分でいるとき、おかあさんはこう助言します。「世界じゅうのあらゆる不幸のことを思い、自分がそれとは無縁でいられることに感謝しなさい」って。

それにひきかえ、わたしの助言はこうです。「外へ出るのよ。野原へ出て、自然と、日光の恵みとを楽しむのよ。自分自身のなかにある幸福を、もう1度つかまえるように努めるのよ。あなたのなかと、あなたの周囲とのまだ残っている、あらゆる美しいもののことを考えるのよ。そうすれば、しあわせになれるわ!

おかあさんの考え方は、とても正しいとは思えません。だって、もしそうなら、自分自身が不幸のなかをさまよっている場合、いったいどうふるまったらいいんでしょう。お手あげじゃありませんか。それとは逆にわたしは、どんな不幸のなかにも、つねに美しいものが残っているということを発見しました。それを探す気になりさえすれば、それだけ多くの美しいもの、多くの幸福が見つかり、人ひとは心の調和をとりもどすでしょう

(「アンネの日記」)

アンネの言葉に、わたしがもうクドクドと余計なことを言う必要はないように思います。

もうこの言葉こそ、「ヨガ・スートラ」の教え

あるいは、何でも心を高揚させるようなものを選び、それに瞑想することによって(心の安定を得る)

(「ヨガ・スートラ第1章39節」)

という言葉と全く同じですね。

ゲシュタポに捕まるわずか1ヵ月前、アンネはこんな風に語っています。

じっさい自分でも不思議なのは、わたしがいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だってどれもあまりに現実ばなれしていて、とうてい実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず、わたしはそれを持ちつづけています。なぜならいまでも信じているからです。たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。

わたしには、混乱と、惨禍と、死という土台の上に、希望を築くことはできません。この世界が徐々に荒廃した原野と化してゆくのを、わたしはまのあたりに見ています。つねに雷鳴が近づいてくるのを、わたしたちをも滅ぼし去るだろういかずちの接近を耳にしています。幾百万の人びとの苦しみをも感じることができます。でも、それでいてなお、顔をあげて天を仰ぎみるとき、わたしは思うのです。いつかはすべてが正常に復し、今のこういう非道な出来事にも終止符が打たれて、平和な、静かな世界がもどってくるだろう、と。それまでは、なんとか理想を保ち続けなくてはなりません。だってひょっとすると、ほんとにそれらを実現できる日がやってくるかもしれないんですから」

(「アンネの日記」)

アンネのこの言葉を読む時、平和な、静かな世界をもう1度、何としても取り戻さなければならないのだと強く思わされます。

1944年8月に隠れ家を発見され、強制収容所へと送られたアンネは、姉マルゴーと共に送られたベルゲン・ベルゼン収容所の不衛生な環境に耐え抜くことができず、1945年の3月にチフスで亡くなりました。

日記を読み終え、アンネ・フランクという人柄を深く知った私達は、アンネが生き延びていてくれたらと心から思わずにいられません。

でも、それだからこそ、アンネの日記を何度でも読み返して、その中に込められたメッセージを噛みしめたい、と、私はそう思います。

参考資料

  1. アンネ・フランク著 深町眞理子訳『アンネの日記 完全版』文集文庫(1994年)