【ギャーナヨガ(知識のヨガ)】どうしてヨガ哲学を勉強した方がいいの?

本記事をご覧いただいている方のほとんどは、すでにヨガの練習をしていらっしゃる方だと思います。

ヨガの恩恵は計り知れず、アーサナ(ポーズ)や呼吸の練習が、どれだけ私たちの人生を豊かにしてくれているのか、多くの方が自分自身で体感しているのではないでしょうか。

練習だけで充分に効果があると感じている方は多いと思いますが、ヨガは常に実践と理論が表裏一体で存在している教えです。同じ練習を行っていても、私たちの意識が間違った方向に向いてしまうと、効果も100%逆のものになってしまいます。

今日は、バガヴァッド・ギータに書かれたギャーナヨガ(知識のヨガ)を読み解きながら、私たちが哲学を学ぶことで得ることのできるヨガの恩恵について考えてみたいと思います。

ヨーガ(実践)とサーンキャ(理論)は常に表裏一体

ヨガの練習をすることと、ヨガの哲学を勉強をすることは正反対に思われるかもしれません。しかしバガヴァッド・ギータでは、ヨガ(実践)とサーンキャ(哲学)を同等のものとしてとらえており、どちらか1つでは意味がありません。

愚者はヨガとサンキャを別のものとして考える。正しい見識のある者は、どちらか一方で得られる効果を他方でも得られると説く。(5章4節)

賢者はサーンキャによって得られることのできるものはヨガによっても得られると考え、サーンキャとヨガを等しくとらえる者は、真実を見る。(5章5節)

これらの文章はどういう意味でしょうか。

私たちは生きている間、常に行為を行っていますが、ヨガでは「何を行った」かではなく、「どのように行ったか」が大切になります。

  • 知識なく行った行為
  • 行為を伴わない知識

この2つは、どちらも全く意味のないものとして考えられています。

正しい知識をもって正しい行動をすることで私たちは目標に到達することが出来ます。それを教えてくれるのがギャーナヨガ(知識のヨガ)です。

カルマ(行為)を行うための知識がギャーナヨガ

カルマヨガの記事でも書きましたが、「良い行いをすること」が「正しい実践」ではありません。

参照:カルマヨガの意味とは?行動・人生を変える日常での実践方法

ヨガとエクササイズの違い

ヨガのクラスでは、アーサナのクラスであっても、先生が繰り返し意識づけを促してくれているでしょう。

  • 自分の呼吸を観察して
  • 体を感じて
  • 周りの人と比べないで
  • ポーズの完成度に執着しないで

これらの自然に行われている指導は、全てヨガの教えを土台にしています。

では、上のような意識づけなしにアーサナの練習をしたらどうなるのでしょうか?

  • ポーズの完成に囚われて、身体が不快だと感じていても無理をする
  • →体を痛める。怪我をする。

  • ポーズが出来たか、出来なかったかにフォーカスする
  • →他人と自分を比べて、上手くできれば自分が優れていると感じ、他者が上手くできていると嫉妬する。ポーズが出来ないと、自分はダメなのだと自信を失う。

  • 外観ばかりに気を取られて、内側に意識を向けない
  • →本来アーサナでは、練習中に自分自身に意識を向けることによって、自身にとって何が快適なのかを知ることが出来ますが、外観に意識を向けている

と、いつまでたっても恩恵を感じることが出来ない。

ほとんどのスポーツやエクササイズでは結果を目標とします。それに対して、ヨガでは結果への執着から解放されるために、練習(行為)自体を目的とします。

ヨガは、執着から解放されるために練習する

ヨガでは知識を持った指導者の下で学ぶことを非常に重要視します。これらの理由から、知識のないアーサナはエクササイズであることがわかります。同じ練習をしていても、正しい意識で行えるかどうかで、向かう方角が180度変わってしまいます。

ヨガの練習をしながらも、練習結果に執着しないことを学ぶ

ギャーナヨガとは、沢山の書物を読みあさって、論理を議論して、知識に喜びを感じる学問ではありません。

私たちが日々生み出している行為とは何か、行為の結果によるカルマから解放されるためにはどうしたらいいのかを学び、実践に活かすための学問です。

実践のない知識にも気を付けましょう

正しい知識なく行うヨガの実践は、ヨガとして全く意味のないものとなってしまいますが、逆もしかり。実践をしていないのに知識だけを学ぶことも意味がありません。

知識の乏しい者たちはヴェーダの言葉に歓喜して執着し、華々しい言葉で称賛し、これ以上のものはないという(2章42節)

バガヴァッド・ギータの教えはヴェーダの知恵を土台にして作られたものですが、そのヴェーダでさえ、”言葉だけでは意味がない”と明示しています。

ハタヨガ・プラディーピカではさらにハッキリと書かれています。

ヨガの成功は練習を行うものだけに訪れる。実践しないもの:ヨガの経典を読む者には決して訪れない(1章63節)

ヨガは、実践と知識、両方が揃って初めて、成功へと進むことができます。

難しい知識を詰め込む必要はありませんが、正しい実践を行うためには、正しい知識が必要になります。それを学ぶのがヨガ哲学です。

知識を持って行う行動は、何にも束縛されない

さて、前置きが長くなってしまいましたが、実際に書かれている教えを読んでみましょう。

ヨガとしての実践は、結果にとらわれない行為

バガヴァッド・ギータに書かれている教えは、ヨガの練習中だけでなく、日常生活すべてにおいて応用の出来る知恵です。

たまたま得たものに満足して、極端な見方をせず、嫉妬を持たず、失敗と成功を同等だと考える者は、行為を行っていても解放される。(4章22節)

最初の部分はヨガスートラのサントーシャ(知足)にも似た文章ですね。

バガヴァッド・ギータでは、結果への執着を捨てることを繰り返し説いています。「失敗と成功を同等と考える」ことも何度も書かれています。

これは日常生活における、全ての行動に当てはまります。

結果を追い求めて行った行動は、その結果に対して一喜一憂してしまいます。

たとえば誰かに親切にする時、その見返りを求めて行っていませんか?

良い行いをしたのに、思った反応が帰って来なくて逆に不快になってしまったことは誰にでも経験があると思います。

結果に執着しないことが、新たな苦を生まないためのコツ
結果に執着しないことが、新たな苦を生まないためのコツ

自分が行うべきこと(義務・ダルマ)に満足して、結果に執着しないことが、新たな苦を生まないためのコツです。

執着せず、なすべきことを行いなさい。執着せずに行為を行えば、その人は至高の境地に到達する。(3章19節)

ヨガスートラに書かれた結果への執着

ヨガスートラでは、さらにヨガの練習にフォーカスした文章で書かれています。

サンヤマ(ダーラナ・ディアーナ・サマディの3つ)に到達すると、霊的な能力を体験することができます。一見ヨガの成功に見えるサンヤマの達成に対しても執着を持ってはいけません。

このような優れた霊能力に対しても歓喜しなくなった時、悪の根が完全に断たれてプルシャが独立した境地に到達する(3章50節)

多くのヨガ修行者はサマディを目指して鍛錬を積みますが、サマディに対する執着でさえヨガの成功の妨げになってしまいます。

サンヤマに限らず、ヨガの実践のあらゆる場面で応用できるでしょう。身近なところでは、アーサナが分かりやすいです。

努力してあるアーサナが出来るようになったとしても、アーサナの完成に執着してしまうと、本来アーサナから得られる大きな効果は逃してしまうでしょう。結果ではなくて、その時行っている練習と、自身の感覚にもっと意識を向けましょう。

自身の人生を豊かにするためのギャーナ(知識)を学ぼう!

難しい宇宙の仕組み、理論を学ぶことが哲学だと思っていませんか?

しかし、バガヴァッド・ギータにおける知識とは、「実践」のために理解するべき知識であり、記憶することに意味はありません。

火が薪を灰にするように、知識は全ての業(カルマ)を燃やして灰にする。(4章37節)

知識は、私たちの行う全ての行為を浄化してくれるものです。同じ行為をしても、知識なく行った場合には必ず業(カルマ)が残ってしまいます。

ヨガに限らず、一生懸命生きていても、モヤモヤが残ってしまってる場合、それは行っている行為に問題があるわけではなく、意識が間違った部分に向いてしまっているからかもしれません。

ギータを始めとした経典の中には、それぞれの人にとって必要な豊富な知識が詰まっています。

この連載でも、少しずつヨガの知識をシェアしているので読んでいただけると嬉しいですし、ヨガ思想の本も増えてきているので読んでみてもいいかもしれません。しかし、できれば先生から直接教わった方が理解が深まると思います。

継続して通いやすい座学のクラスを見つけることは難しいですが、ワークショップなどでチャンスがあったら是非参加してみると良いと思います。基礎知識だけでも先生から直接学ぶことができると、後から本などで調べてもずっと自然に読めるようになってきます。

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