記事の項目
ヨガの醍醐味は、やっぱり瞑想です。ヨガ・スートラで説かれる八支則のアーサナやプラーナヤーマも、深い瞑想を行うための心と体の準備段階だと考えられています。
ヨガの瞑想の一番深い状態をサマディ(三昧)と呼ぶことは有名ですが、サマディが何を意味しているのか理解している人は少ないと思います。
ヨガのサマディも、教典によって定義のニュアンスが違うこともあり混乱を生んでしまいますが、今回はヨガ・スートラに書かれているサマディの定義と、サマディの種類について説きます。
ヨガの瞑想サンヤマとサマディ(三昧)とは?
ヨガ・スートラのサマディを理解するためには、サンヤマという一連の流れを理解する必要があります。
サンヤマはヨガ・スートラの八支則の中の最後の3つを合わせた呼び方です。八支則については以前の記事でまとめているので、詳しくはご参照ください。
サンヤマに含まれるダーラナ・ディヤーナ・サマディは意識が完全に内側に向いて、外からの情報(音・香り・温度など)に全く意識が結びつかなくなった後の瞑想状態です。
- ダーラナ(凝念・集中):意識を一点に集中。
- ディヤーナ(静慮):ダーラナで一点だった対象を広げる。
- サマディ(三昧):心が対象の中に没入して自我が消えた状態。
少しわかりにくいので、サマディに没入するまでの瞑想の段階を順番に見ていきましょう。
ダーラナ(凝念・集中)
サンヤマの1段階目のダーラナは、瞑想の対象物の一点に意識を向けて完全に集中している状態です。
意識が完全に集中している時、その対象以外の雑念は湧いてきません。ダーラナとは、対象に向けた意識以外いかなる思念も湧いてこないような非常に高次の集中状態です。
瞑想の対象は、神であったり、音、聖者、もしくは花のような自身にとって好ましいものであれば集中が行いやすいです。
ディヤーナ(静慮)
ディヤーナはダーラナが深まって、対象への集中が途切れなくなった状態です。ディヤーナはダーラナの状態での瞑想を続けることで、流れで自然に到達することができます。
対象への意識がより深まることで、自身の意識は完全に対象物の中に没入してしまい、他の思考はいっさい生まれなくなります。
サマディ(三昧)
ディヤーナで対象への意識が深まることにより、瞑想者本人の自我意識が消滅してしまった状態をサマディと呼びます。
瞑想の最初の段階では「私が花のイメージをしている」という認識ですが、心の中を花のイメージだけが覆いつくすことによって「私」という認識が自然と消えていきます。
そうやってサマディにより自我意識が弱まることによって、人の煩悩や執着心は自然と消滅していき、私たちは苦しみから解放されることができます。
「その(サンヤマ)達成によって、高度な知識の光明が現れる。(ヨガ・スートラ3章5節)」
人は、自我意識を持ってしまったことで様々な執着心を抱き、苦しみの感情を生み出します。自分自身への執着心は人間にとって最も手放すことが難しいものです。それを、瞑想のシステムで弱めることによって、執着に支配されない自由な心を手に入れることができます。
サマディ(三昧)の種類
八支則の最後にあるので、ヨガの最終ゴールだと考えられがちなサマディですが、実は1度到達しただけではヨガの成功ではなく、繰り返しサマディ状態を体験することで、さらに高次のサマディに到達することができます。
その過程にはいくつかの段階があるので、ヨガ・スートラに書かれたサマディの種類についてもご説明します。
有種子サマディと無種子サマディ
まず、サマディを大きく分けると有種子サマディと無種子サマディの2種類に分類することができます。
有種子サマディは、瞑想によって自我意識が消滅しても、思考が生まれる要因である種が残っている状態です。つまり、思考の働きは完全には静止していない状態です。
例えば、花を対象に瞑想していたとすると、最初のサマディの状態では、まだ花のイメージが心の中に残っています。
この有種子サマディの状態を続けることによって、僅かに残った思考の働きも徐々に消失していきます。そして、どのような思考の元も完全に無くなった状態のことを無種子サマディと呼びます。
有種子サマディの種類
有種子サマディには、少しづつ静止していく思考の状態によって、いくつかの段階に分類されています。
有尋三昧(サヴィタルカー・サマーパッティ)
分別知、つまりものを正しく理解する機能が残っている状態のサマディです。例えば、花のイメージに対して「これは桜の花である」「これはピンク色である」と分かっている状態です。
それに対して「私はこの桜が好きだ」と考えてしまうと、それは雑念となってしまい、サマディから逸脱してしまいます。あくまでも認識する機能だけが残っている状態を有尋三昧と呼びます。
無尋三昧(ニルヴィタルカー・サマーパッティ)
上記のような分別知や、記憶が消えてしまった状態のサマディです。瞑想の対象の花のイメージだけは残っていても、それを花だと認識する心の働きは消えてしまっています。
過去の経験による記憶も、表には現れていなくても思考の原因となります。無尋三昧では、そのような記憶も消滅します。
有伺三昧(サヴィチャーラー)
花など、瞑想の対象まで消失した状態のサマディです。しかし、「五唯」と呼ばれる微細な心の働きや、アハンカーラ(自我意識)、ブッディ(覚)は心の中に残っています。
思考の対象がないため、一見どのような心の働きも存在しないような感覚を覚えますが、思考の元となる種子はまだ残っています。
無伺三昧(ニルヴィチャーラー)
真実への知だけが残った状態のサマディ。物質世界への意識は完全に消えて、プルシャ(真我)への意識だけが輝いて現れます。
無種子三昧(ニルビージャ・サマディ)
真知さえも止滅させたサマディの状態です。プルシャ(真我)は、プラクリティ(物質原理)の作り出したあらゆる思考活動から完全に解放されます。
カルマ(業)やサンスカーラ(潜在印象)は自然に消滅され、あらゆる苦悩の原因は消え去ります。
サマディの目的は自由になること
サマディは特別な超越体験をすることが目的ではありません。もちろん、瞑想が深まり、自身の心が生み出したあらゆる制限や執着から解放される過程で、とても気持ちがいい精神状態を経験し、それを快楽だと感じる場合もあります。
しかし、そのような瞑想の中での体験に執着してしてしまうことも危険です。
快楽的な喜びさえも手放して、ヨガやサマディへの執着さえなくなった時に、本当の意味での自由(解脱)が訪れます。その目的を分かっていると、道に迷うことなく、瞑想を深めることができるのではないでしょうか。