ヨガで育む自分軸。それは、常識にとらわれない自由な心

ヨガで育む自分軸。それは、常識にとらわれない自由な心

ヨガの教えの中にも、『ヨガ・スートラ』の八支則のように道徳と混合されやすいものがあります。確かに、「暴力はいけません」「嘘はいけません」と言われると、子どもがお母さんから習う道徳のようですね。

しかし、本来ヨガとは、自分を自由にするものであって、道徳観念や、宗教、社会的価値観とは違います。「当たり前」と思っている一般常識は、時に自分の人生を窮屈にしてしまうものです。

あなたを窮屈にしているのは、社会的常識

私たちは、本来生まれた時には自由な存在であるはずです。しかし、生きていると窮屈さを感じる、という人がほとんどではないでしょうか。その原因のひとつとして考えられるのが、外から与えられた「常識」という概念に囚われてしまっていること。

人は子どもの時に両親や先生、周りの人たちから道徳を学びます。

「汚い言葉使いを使ってはいけません」
「ちゃんと野菜も食べなさい」
「いい大学に行って、正社員で働ける職に就きなさい」
「目上の人のアドバイスを聴きなさい」……

毎日私たちが行っている行動のほとんどは、この幼い頃から学んだ一般常識の積み重ねによるもので、無意識のうちに「当たり前」だと思って行っていることです。

自由になりたければ、常識を見直そう

社会生活を行う上で、そのような社会的常識は非常に便利な道具です。しかし、過剰に常識に囚われていると、自分の人生の自由を奪ってしまいます。

常識に囚われてしまった男性のイラスト
常識に囚われすぎると人生の自由を奪ってしまう
  • 会社が忙しいのに有給休暇を取るなんて非常識。
  • 私の仕事は終わったけれど、先輩よりも早く退社するなんてあり得ないから帰れない。
  • 女性なのだから毎日化粧をして会社に行くのが当たり前。
  • 共働きだけど、お母さんが子どもの幼稚園の送り迎えに行くのは当たり前。

なんとなく、周りの人が「当たり前」だと言うから、本当は腑に落ちていないのに我慢してしまっていることは沢山ありますよね。

大学を卒業して初めて就職すると、勤め先の常識が社会全体の常識だと勘違いする人も多いです。実は、社会の常識は業界や地域で全く違います。もしくは、一歩日本を出ると全く通用しない常識も多いです。自分のいるコミュニティの常識で自分の思考を制限しないように気を付けましょう。

常識へのとらわれが、人付き合いをも窮屈に…

いつでも「常識」という判断基準で物事を見ていると、周りの人との付き合いも窮屈に感じてしまいます。

例えば男女で出かけた時に、女性側が「食事代は男性が払うのが当たり前」という価値観を持っていると、男性がそれを渋っただけで「女性に払わせるなんて非常識」と感じるでしょうし、男性側も、「払ってもらって当たり前」という態度に不信感を持ってしまいます。

このような人間関係の小さな溝は、友達関係や職場の人間関係でも常に起こっています。自分自身の常識意識が強くなりすぎることで、少しでも違う行動を行う人に対して違和感を感じるようになってしまいます。

その結果、自分と違う価値観を持った人との付き合いが困難になり、窮屈さを感じるようになるでしょう。

ヨガで育てるのは自分軸〜あなた本来の価値観〜

人が社会道徳を大切にするのは、社会全体で共通認識を持つことで、人間関係などが円滑になり衝突が起きにくくなるからです。

しかし、社会常識に縛られてしまうと、窮屈に感じてしまいます。大切なのは、多くの人が使っている共通認識を認めながらも、自分の意見を持っていること。それだけでとても楽になるものです。他の人の価値観に合わせる必要はありません。自分が一番快適にいられる自分軸を見つけましょう。

人にはそれぞれ別々のダルマ(職務)がある

自分に自信がない人は、人にはそれぞれ違うダルマ(職務)が与えられていることを理解すると楽になるかもしれません。

自己のダルマの遂行は、不完全でも、よく遂行された他者の義務に勝る。自己のダルマに死ぬことは幸せである。他者の義務を行うことは危険である。(『バガヴァッド・ギーター』3章35節)

学校教育では全員が同じ課題に取り組みます。会社に就職した後も、多くの人が同時入社の同僚と同じタスクを学ぶところからスタートします。そのため、与えられた課題の得意不得意で、自分と他者のどちらが勝っているかを評価しがちです。

しかし、人にはそれぞれ生まれ持った得意不得意があります。勉強が全くできない人も、スポーツや芸術、料理など、全く別の分野で才能を発揮できる場合があります。

たとえ飛び出た才能がなかったとしても、幸せに生きられる人だって沢山います。

自分の本当のダルマ(職務)を見つける方法

ダルマ(職務)とは、自分にとっても他人にとっても快適であるために行うべき行為です。しかし、ほとんどの人は自分のダルマが何か分からなくて悩んでいます。

どうして私たちは自分のダルマが分からなくなるのか?ものごとを正確に捉えることができないのか?クリシュナは「欲望」という煩悩のせいだと説きます。

火が炎に覆われ、鏡が汚れに覆われ、胎児が羊膜に覆われるように、この世はそれ(欲望、怒り)に覆われている。
知識ある者の知識は、この永遠の敵に覆われている。アルジュナよ、欲望という満たしがたい炎によって(バガヴァッド・ギーター3章38・39節)

世の中の全ての問題の答えはすでに自分自身の内側にあります。悩みがあるというのは、「欲望」が原因で生まれた濁りによって視界が曇ってしまっているからだとクリシュナは説きます。

その靄を消すための方法がヨガです。アーサナやプラーナヤーマ、瞑想など全てのヨガの実践は心の中の不純性を弱めるための実践です。
結果に執着することなく、常修と離欲をもってヨガを実践することで、必ず自分自身の正しいものの見方ができるようになります。

そうすれば、社会の中にいても一般常識に縛られることはなくなり、自由を手にすることができます。

自分の価値観で快適に生きる

自分自身の価値観で生きるというのは、社会と反発するという意味ではありません。本来私たちにとって快適な生き方というのは、自分にとっても周囲にとっても調和のとれたバランスの良い状態だからです。

快適な生き方というのは、調和の取れたバランスの良い状態
快適な生き方というのは、調和の取れたバランスの良い状態

「自由」と「自分勝手」は違う

我慢しない、自分を押し付けないような自由な生き方というと、自分の好きなことをすれば何でもオッケーだと聞こえてしまうかもしれません。しかし、利己的・自己中心的な行動はやはりヨガ的な生き方とは違います。

例えば、洋服を選ぶときに、周囲の目を気にせずに着たい洋服を着るというのは、自分にとって快適なことです。しかし、目的が「個性的になりたい」という場合には、「人と違うことがしたい」という、他人との比較の感情が動機です。その結果、「自分は人とは違う」、「周囲の人は平凡で退屈な存在」だと考えてしまうかもしれません。

もしも、自分自身の洋服の好みが、たまたま人と違って、好きなものを着ていたら、わざわざ他人と自分を比較しません。自分が他者を批評しなければ、周囲もあなたに向けて不要なジャッジをしなくなります。

自分自身の価値観を認めることは、同時に周囲の人の価値観も認めてあげることです。周囲の人と違う価値観を持つと、最初は周りから理解されずに否定されることもあるかもしれません。しかし、変化の過程では必ず反発する力が起こります。それさえも受け入れることで、徐々に自分の心地いい状態と、周囲の環境の調和がとれるようになってきます。

常識を超えて自分軸で生きることは怖いことでもなんでもない

今回の内容は、わざわざ他の人と違う価値観を探すためのものではありません。周囲の社会常識と自分の価値観が合えば、何よりも素晴らしいことでしょう。

しかし、もし現在の生活に窮屈さを感じていたら。その時には、自分の中にある「当たり前の常識」を見直し、本当の自由を手にいれる、いいチャンスととらえてみてください。

ヨガは観察することです。自分の中の価値観がどうして作られたものなのか、それは本当に自分が感じているものなのか。思い込みなく真実を見るためには、ヨガの練習で心の不純性を取り除くことがとても役立ちます。

こうして、自分の価値観を見直し、築き上げていくと、社会の中で生きていても、心は何にも囚われない自由な生き方ができるようになります。

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