『はてしない物語』に見るプルシャ〜あるがままの自分である悦び〜

『はてしない物語』に見るプルシャ〜あるがままの自分である悦び〜

こんにちは。丘紫真璃です。ヨガで文学探訪。今回は、『はてしない物語』を取り上げたいと思います。

『ネバーエンディング・ストーリー』という映画の原作としても知られているかもしれませんが、映画を観て原作を理解したような気持ちになっていただくのは、少し困ります。

映画は原作と全然違うということもありますが、『はてしない物語』は、やはり、あかがね色に光る絹の分厚い本を手に取り、緑色と赤色で印刷されている文字を読んで、はじめて、その面白さが、お腹の底からわかる物語であると、思うからです。

そして、原作を読み進めるうちに、そこにはヨガの教えにもつながるメッセージを受け取ることができるでしょう。

バスチアンの、あかがね色の絹の本

『はてしない物語』とは、ドイツの作家ミヒャエル・エンデによるファンタジーの名作です。
子どもが楽しめるのはもちろん、大人であっても、この作品を読めば深く感動なさること間違いなしの、唯一無二の名作といってよいでしょう。

この物語は、主人公のバスチアンが、学校の友達にいじめられ、追いかけられて、古本屋に逃げ込むところからはじまります。その古本屋の店長は一冊の不思議な本を読んでいます。

その本について、次のように描写しています。

表紙はあかがね色の絹で、動かすとほのかに光った。パラパラとページをくってみると、なかは二色刷りになっていた。表紙をもう一度よく眺めてみると、二匹の蛇が描かれているのに気がついた。

一匹は明るく、一匹は暗く描かれ、それぞれ相手の尾を噛んで、楕円につながっていた

本好きのバスチアンは、その不思議な本を見たとたん、わけのわからない衝動にかられ、おじさんが本を置いて、席を立ったすきに、黙って本を盗んできてしまいます。


ここで、読者が単行本を読んでいるならば、ハッとあることに気がつきます。読者が手にしている本もまた、あかがね色の絹でできており、なかは二色刷りになっています。

そして、表紙をよく見てみると、二匹の蛇がそれぞれの尾を噛んで、楕円につながっている絵が確かに描いてあるのです!

つまり、バスチアンが今盗んできた本と同じ本を、読者も読んでいるというわけですね。

バスチアンは、盗んできた本を家に持って帰るわけにいかず、学校の物置小屋にこっそり隠れて、そこで夢中になって本を読み始めます。ここからが魔法のはじまりです。そう、バスチアンの本は魔法の本なのです。

自分を見失う

自分を見失う
自分を見失う

はてしない物語の一番の特徴は、主人公のバスチアンが、魔法の本を夢中になって読むうちに、その本の世界に入り込んでしまうという点にあります。

それはただ、バスチアンが、没頭して本を読んだというだけのことではありません。本のページの間から突風が吹き、本当に、身体ごとすっぽりと、本の世界に入ってしまうということなのです。

バスチアンが読んでいる本は、ファンタージエン国という異次元世界の物語なのですが、バスチアンは、ファンタージエン国に入り込み、そこで冒険していくことになるのです。

彼は、ファンタージエンの女王「幼ごころの君」から、アウリンという金のおまもりをさずけられます。それをさげているうちは、どんな望みもかなえられます。

美しくなりたいと思えばその通りになり、強くなりたいと思えば、誰よりも強くなり、賢くなりたいと思えば賢くなりますし、尊敬されて感心されたいと思えば、ファンタージエンじゅうのものから尊敬の目で見られます。

けれども、ファンタージエンで次々に望みをかなえていくうちに、バスチアンは、人間世界の記憶を一つずつ失ってしまいます。でも、それは、バスチアン自身が望んだことでした。なぜなら、バスチアンには、人間世界に良い記憶などなかったからです。

彼は、でぶで弱虫で友達にはいじめられていて、母親は死に、父親は、バスチアンを顧みてくれません。人間世界の記憶など、かえって忘れたいくらいだったのです。

人間世界の記憶を次から次に忘れていったバスチアンは、次第に、ファンタージエン国の帝王になりたいという望みを抱くようになります。けれども、その望みは、アトレーユというファンタージエン国でできたバスチアンの友達に阻止されてしまいます。

帝王になれずに怒り狂うバスチアンですが、やがて、恐ろしい事実を知ります。帝王になったものは、人間世界のすべての記憶を失ってしまい、もう二度と人間世界には帰れなくなるということ。

そして、記憶を失うということは、自分を失ってしまうということであり、自分を失ったものは、ぬけがらのような恐ろしい姿になって、永遠にファンタージエンの「元帝王たちの都」という、ぞっとするような場所にとどまらなければならないということを。

では、どうすれば、再び元の世界に戻れるのかというと、生命の泉を見つけなければならないと、バスチアンは教わります。生命の泉の水を飲んだら、自分を取り戻し、そして、人間世界に帰る道を見つけることができるのだ、と。


生命の泉を見つけることができないまま、バスチアンは、どんどん、人間世界の記憶を失くしていきます。そして、ついに自分の名前さえもわからなくなった時、彼は、失望のうちに、「幼ごころの君」からさずかったアウリンを、自らすすんで外します。

すると、なんということでしょう!アウリンの金の光がきらめきを発し、はかりしれない明るさとなって燦然と輝きわたったのです。広い広いドームが現れ、ドームの中央には、巨大な蛇が二匹、互いの尾をかんで横たわっていました。そして、その蛇の輪の真ん中に、生命の泉があったのです!

生命の泉は、ずっとバスチアンが首からさげていたアウリンの中にあったのです。彼が探し求めていた戸口は、はじめからずっと、彼が自分で持っていたのでした。

自分を見つける悦び

自分を見つける悦び
自分を見つける悦び

生命の泉に歩み寄っていく間に、バスチアンはファンタージエンで得た美しさや、強さなどをすべて失い、元のでぶで弱虫の自分に戻ります。そうして、バスチアンが、生命の泉に飛び込んだ時のことを、本の中ではこう書いてあります。


バスチアンは、ためらわずに水にとびこんだ。そして、水晶のように澄んだ水の中で、転げまわりはねまわり、水を吹きとばしはねかえして、きらきらととび散る水滴を口に受けて飲んだ。

飲んで飲んで、渇きがすっかりおさまった時、体中に悦びがみちあふれていた。生きる悦び、自分自身である悦び。自分がだれか、自分の世界がどこなのか、バスチアンには、今ふたたびわかった。

新たな誕生だった。今は、あるがままの自分でありたいと思った。そう思えるのは、何よりすばらしいことだった

ー 『はてしない物語〜生命の水〜』[1]

あるがままの自分を見つけるまでのバスチアンの旅。真の自分を見つけるまでの、長い長い旅。これは、ヨーギーが真の自己——プルシャを見つけようと、自分の心の葛藤と戦う長い長い修行と同じではないでしょうか。

私は女であるとか、私は日本人であるとか、私は母であるとか、そういう肩書を、すべてはぎ取った時、そこには何が残るでしょう。名前でさえも、自分からはぎ取った時、そこに静かに残るもの。それが、真の自己「プルシャ」ではないでしょうか。

バスチアンは、生命の泉を飲む前、ファンタージエンでもらった美しさや、強さ、きれいな服など、すべてのものを返しました。一糸まとわぬはだかの姿で、しかも、人間世界の記憶もなくした彼は、全く生まれてきたままの状態で、生命の泉の中に飛びこんでいったのです。

そう。ファンタージエンで得た、すべてのものを返し、すべての人間世界の記憶を失ったバスチアンだったからこそ、生命の泉を飲んで、本当の自分というものをしみじみと胸に迫るほど実感することができたのです。

あるがままの自分でいる悦び。真の自己を発見した悦び。プルシャを見つけた悦びは、何にも代えられません。そして、一度でもその悦びを知ったものは、もう決して、その悦びを失くすことはないのです。

『はてしない物語』には、こう書いてあります。

あとになって、バスチアンがまた自分の世界にもどってからずっと時がたち、やがて年老いてからも、この悦びは消え去ってしまうことはなかった。

生涯のうちの最も困難な時期にさえ、かれには、この心の悦びがあり、それがかれをほほえませ、まわりの人びとを慰めた

ー 『はてしない物語〜生命の水〜』[1]

私達は、いくら一生懸命ヨガをしていても、なかなかプルシャを見る悦びを経験できません。

しかし、『はてしない物語』を読むと、あるがままの自分でいることの悦び、自分自身でいることの悦び、真の自己を知る悦びを、バスチアンをとおして知ることができるのです。

『はてしない物語』は、私達一人一人に、それぞれあります。なぜなら、バスチアンが、ファンタージエンで繰り広げた旅は、バスチアンの心の旅にほかならないからです。私達は、自分自身の心の旅をそれぞれしなければならないのです。

私達のはてしない物語は、これまでもずっと続いてきました。そしてこれからも、はてしなく、はてしなく、続いていくことでしょう。
 


参考資料

  1. ミヒャエル・エンデ著、上田真而子・佐藤真理子訳『はてしない物語』岩波書店、1982年