みなさん、こんにちは。丘紫真璃です。今回は、新川和江の『わたしを束ねないで』という詩集を取り上げたいと思います。
新川和江といえば、戦後日本を代表する女性詩人の一人ですが、恥ずかしながら、私はこの人の存在を今まで知りませんでした。朝日新聞の天声人語で『わたしを束ねないで』が紹介されていたことで初めてその存在を知り、この詩集を手に取ってみたと言うわけです。
高度成長期に、妻として、また母として生きた新川和江の詩の数々は、時代を超えて、今の女性たちにも通じるものばかりでした。そして、やはり、ヨガと深くつながっていたのです。
というわけで、今回は、新川和江の詩とヨガのつながりを考えていきたいと思います。
新川和江という詩人

新川和江は、1929年に茨城県で生まれました。桑園で育った彼女は、17歳で高等女学校を出るとすぐに、近所の新川家に嫁ぎます。
夫の新川淳が、女は家を守っておけばいいという考え方の人だったら、詩人新川和江は誕生しなかったでしょう。しかし、新川淳は、妻に何をしてもよいという人だったので、彼女は詩や少女小説、童謡、エッセイなどの創作に励みます。
1953年に初めての詩集『眠り椅子』を刊行以来、第9回小学館文学賞、第5回室生犀星詩人賞、第5回現代詩人賞、第13回詩歌文学館賞など、数多くの賞を受賞しました。
『わたしを束ねないで』

では早速、代表作の『わたしを束ねないで』から見ていきましょう。
わたしを束ねないで
わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽搏き
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド) いくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終りのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩新川和江.『わたしを束ねないで』. 童話屋.1997.p.15
こちらは、新川和江が37歳の時の作品です。日本は、高度成長期の真っただ中。世の中は、男は外で猛烈に働き、女性は家を守るのが当たり前だった時代です。そんな中で、新川和江は、娘や妻、母という重苦しいものに自分を縛り付けないでくれと、この詩の中で歌っているのです。
娘や妻、母というものに縛られず、風のように自由でありたいと彼女は歌います。その気持ちに、現代の女性の多くの方々も、共感なさるのではないでしょうか。
ヨガでは、縛りをなくすことが何よりも大切だと教えられます。女性は家を守るべきだとか、女性が家事をこなし、子育てをするべきものだという考えも全て、縛りですよね。
女性が外で働いて、男性が家で家事を担ってもいいわけです。あるいは、女性も男性も外で働き、二人で協力しながら子育てをしたっていいですよね。シェアハウスなどに住み、周りに多くの大人の目がある中で子育てをするのも安心かもしれません。
その人、その人の心地よい暮らしがあって良いはずですが、女性は家事をするべきものだという縛りに、私たちは知らず知らずのうちに縛り付けられています。
それでも現代は、昔より女性の生き方の選択肢が増えましたが、新川和江が37歳だった高度成長期は、今よりもっと女性が家を守るべきという縛りが強かったことでしょう。
そんな縛りにあらがうように、縛りから自由でありたいと歌う新川和江のこの詩は、ヨガと深くつながっていると言えるのではないでしょうか。
私たちは、様々な縛りの中で生きています。女性は家を守るべきというのも一つの縛りであるし、母が中心となって子育てをすべきというのも一つの縛りですよね。その他にも、様々な固定観念や偏見、常識といったものに、どうしても縛られているのが人間です。
けれども、ヨガではそんな縛りを一つ一つなくして自由になった時に、プルシャが見いだせると言われています。プルシャとは、ヨギーが目指す究極の境地で、決して変わることのない永遠のものだそうです。悟りを開いたといいますが、それはプルシャを見いだしたということであるわけです。
プルシャは、生きとし生ける全てのものに宿っています。私という生命の中にも宿っていますし、金色の稲穂の中にも、海の中にも、風の中にも宿っています。
『わたしを束ねないで』という詩の中で、新川和江は、娘とか妻とか、母であるとか、そういった縛りから自由になり、金色の稲穂に、広い海に、風になりたいと歌います。
それは、私は縛りからどこまでも自由になり、ただプルシャでありたいと歌っているのではないでしょうか。
私はそんな風に思ったのですが、みなさんはいかがですか?
『赤ちゃんに寄す』

新川和江の詩の中には、女性として生きる孤独や愛を歌った詩が多くありますが、母として生命を授かった悦びの詩もたくさんあります。その中の一つ『赤ちゃんに寄す』を、紹介したいと思います。
赤ちゃんに寄す
うす紅いろの小さな爪
こんなに可愛い貝がらが
どこかの海辺に落ちていたらば
おしえてください光る産毛 柔かな髪
こんなに優雅な青草が
はえている野原があったら
そこはきっと神さまの庭です赤ちゃんのすべて
未完成のままに
これほど完璧なものが
ほかにあったら
見せてください<わたしが生んだ!>
どんな詩人の百行も
どんな役者の名台詞も
このひとことには
適いますまい吾子よ
おまえを抱きしめて
<わたしが生んだ!>
とつぶやく時―世界じゅうの果物たちが
いちどきに実る
熟した豆が
いちどきにはぜるこの充実感
この幸福(しあわせ)新川和江.『わたしを束ねないで』. 童話屋.1997.pp,105-107
生まれたばかりの赤ちゃんを見ていると、命が生まれるって何て不思議で奇跡的なことなんだろうと強く思いますよね。今、誕生したばかりの生命って、光り輝いていますよね。
新川和江は、まぶしいほどに光り輝く赤ちゃんに寄せた詩をいくつも歌っています。
赤ちゃんというものは、今、生まれたばかりで何にも縛られていません。固定観念や常識、偏見といったもの、地位や立場といった全ての縛りから自由です。だから、ヨガでは、生まれたての赤ちゃんのような純真な存在をサットヴァと呼び、理想的な状態であるといいます。
縛りから自由になり、プルシャを見いだせる存在とは、サットヴァな状態の人のことを言うのです。ヨギーは、生まれたばかりの赤ちゃんのように何にも縛られずに自由になることを目指しているのです。
新川和江は、赤ちゃんのことを「未完成のままに これほど完璧なものが ほかにあったら 見せてください」と表現していますね。
確かに、赤ちゃんは未完成です。これから成長し、多くの事を学び、大人になっていくわけですから。けれども、成長するにつれ、様々なものに縛られることにもなります。だから、何にも縛られていない、今この瞬間の赤ちゃんこそ完璧な存在なのです。誕生したばかりの赤ちゃんより純真で縛られていないものは、他にありません。
ですから、『赤ちゃんに寄す』は、サットヴァというものを的確に表現した詩だと私は思ったのですが、みなさんはいかがでしょうか。
新川和江という詩人について、茨木のり子さんはこう語っています。
環境にめぐまれて、ぐうたらな有閑マダムとなってしかるべきところ、精神の安住を嫌い、本質的な問いを絶えず発し続けてこられました。詩人としても、人間としてみても新川和江の値打は、そこにありましょう。(花神ブックス3より)
新川和江.『わたしを束ねないで』. 童話屋.1997.pp,154-155
新川和江の詩が本質的な問いを発しているからこそ、ヨガとつながっているのかもしれません。
戦後の日本に生きた詩人ですが、彼女の言葉は、現代の私たちにも通じるものがあると思います。多くの女性が共感なさる詩だとは思いますが、女性だけでなく全ての人が読むべきものではないかとも思います。ぜひ、新川和江の詩を読んでみて下さい!









