A boy and a girl in the English garden

『トムは真夜中の庭で』

みなさん、こんにちは。丘紫真璃です。
今回は、イギリスの児童文学作家であるフィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』を紹介したいと思います。
1958年に発表されたこの作品は、時を扱った小説の古典と言われ、非常に評価の高い作品です。ジョン・ロウ・タウンゼンドというイギリスの児童文学作家は、『トムは真夜中の庭で』について、次のように語りました。

もし私が、第二次世界大戦後のイギリスの児童文学作品のなかから傑作だと思われるものをただ一作だけ挙げろと言われるなら ― 三十年間に一本の傑作というのは、まず妥当な比率だと思うが ― 、私はこのすばらしく美しくて、夢中にならずにいられない作品をあげようと思う。

フィリパ・ピアス. 訳 高杉一郎. 『トムは真夜中の庭で』. 岩波少年文庫. 2014. p,352

この作品については、この言葉が全てを語ってくれているので、今さら私がつけくわえることはないくらいですが、思わず小説の世界にひきこまれてしまう傑作だと思います。
今回は、この『トムは真夜中の庭で』とヨガのつながりについて考えていきたいと思います。

物語の舞台は、フィリパ・ピアスの生家

England, Cambridge

フィリパ・ピアスは、1920年にイギリスのケンブリッジ州にあるグレート・シェルフォドという田舎町にある製粉工場で生まれました。ピアスの家は、代々、製粉工場を経営している家系でした。しかし、製粉工場といっても、私達が想像するような工場というよりは、荘厳な邸宅のようなものだったようです。どんな邸宅だったのか、ピアス自身が次のように説明しています。

その家は大きく、横にながく、荘重なつくりだった。おそらく、十九世紀のはじめに建てられたものであろう。ものすごくひろい庭園があって、芝生の周囲を、古いイチイの木がとりまいていた。イチイの木のあいだには、アーチのような形になった道や奥ふかく切りこまれた空き地などがあった。大きなツゲのかん木があって、横に大きく口をあけていた。父の話だと、そのツゲの木が大きく口をあけたところに、祖母は、ヴィクトリア朝ふうに、花の咲いているゼラニュームの鉢をたくさんあつめていたということだ。

フィリパ・ピアス. 訳 高杉一郎. 『トムは真夜中の庭で』. 岩波少年文庫. 2014. p,355

ピアスは、二作目となる『トムは真夜中の庭で』の舞台に、自分が生まれ育った邸宅を選びました。ピアスによると、細部にいたるまで全て正確に描写したということです。物語を実際に読んでいただけるとわかりますが、邸宅や庭園の様子をまざまざと目に見えるように細かく描写してあります。実に見事ですので、ぜひ実際に読んでみて下さいね。この作品で、ピアスはカーネギー賞を受賞しました。

十三回鳴った大時計

古い柱時計

さて、物語の話にうつりましょう。
主人公は、トム・ロングという少年です。弟のピーターがはしかにかかったため、夏休みにも関わらず、あまり馴染みではない親戚のおじさんとおばさんの家に預けられることになってしまいました。
おじさんとおばさんの家は、大邸宅だった家をアパートに改造したところでした。トムは狭苦しいアパートの一室で、おじさんとおばさんと共に過ごさなければならない羽目に陥ったことを嘆き、早く家に帰りたいとそればかり考えています。はしかにかかっているといけないから、という理由で外に遊びに行かせてもらえないトムは、運動不足で夜もさっぱり眠れません。

真夜中になってもトムが眠れずに目を覚ましていると、アパートのホールにあった大時計が時を鳴らす音が聞こえてきました。ホールの大時計は、とても古いもので狂っていました。時計の針は正しく時を刻んでいるのですが、めちゃくちゃな鳴り方をするのです。5時だから5回鳴らないといけないところを、1回だけしか鳴らなかったりするのです。

その大時計が、真夜中になんと13回も鳴りました。トムはすっかり驚いてしまいます。

十三時だって? トムの心はビクッとした。あの時計は、ほんとうに十三うったんだろうか? くるった古時計だって、十三うったなんて話はこれまできいたことがない。きっとぼくの気のせいだったんだろう。眠りかけていたが、それとも眠ってしまっていたんじゃなかろうか? いや、ちがう。はっきり目をさましていたか、うとうとしていたかはわからないが、十三までかぞえてきたことだけはたしかだ。
このできごとは、トムになにか変化をもたらした。トムは勘でそれがわかった。そう思うと、トムはおちつかなかった。夜のしずけさが、そのなかになにかはらんでいるように思われるのだ。邸宅ぜんたいが息をころしているように思われ、くらやみがトムにこう問いつめているように思われるのだ。― おいでよ、トム。大時計が十三うったよ。きみは、いったいどうするつもりなんだ?

フィリパ・ピアス. 訳 高杉一郎. 『トムは真夜中の庭で』. 岩波少年文庫. 2014. p,31-32

トムは大時計がなぜ13回鳴ったのか、その秘密を探りにいこうと、こっそりとベッドを抜け出してアパートのホールに忍び込みます。ホールが真っ暗闇で何も見えなかったため、トムは月明かりが入るようにと裏口のドアを開けました。そのとたん、トムは驚くような光景を目にします。裏口の外に、素晴らしい庭園が広がっていたのです。
普段、このアパートにはどこにも庭園なんてありません。裏口のドアを開けたところにあるのは舗装してある狭い空き地で、そこにはゴミ箱が5つ並んでいるだけでした。
それなのに、今、間違いなく、トムの目の前に庭園が広がっていたのです。

それ以降、トムは真夜中に大時計が13回鳴るたびにホールへおりてゆき、裏口のドアを開けて不思議な庭園に遊びに行くようになります。庭園は、大抵いつでも青空が広がっていますが、季節は春だったり、夏だったり、秋だったり、その時によって違いました。時間も夕方だったり、早朝だったり、昼間だったりするのです。また時の経過もめちゃくちゃで、一度倒れたはずのモミの木が、次に行った時には元通りに立っていたり、そこで出会った人物が、次の時には急に幼くなっていたりするのです。

その庭園で出会う人物はみんな、トムの姿が見えないようでした。ところが、1人だけ、トムが見えた人がいたのです。それが、ハティという女の子でした。
トムは、ハティと仲良く一緒に遊ぶようになります。

おばあさんだったハティ

少女の手を引く老婆の後ろ姿

トムは、ハティの服装や言動から、ハティは昔の時代の女の子だと推理します。でも、昔の時代の女の子だったとしても、ハティは楽しい友達でした。ハティと遊ぶのが楽しくて、トムはあんなに家に帰りたがっていたのに、帰宅を延長しておじさんのアパートにとどまります。

やがて、もういい加減帰って来なさいと両親に催促されてしまいます。おまけに、庭園で遊ぶハティは、トムを追い越して大人の女性になってしまい、しまいにはトムのことが見えなくなってしまいました。そしてついには、裏口をあけても庭園に行くことができなくなり、トムはとても悲しみます。

ところが、最後に驚くような結末が待っていました。おじさんのアパートの3階に、このアパートの家主であるバーソロミュー夫人というおばあさんが住んでいたのですが、そのおばあさんこそがハティだったのです。
おばあさんがハティという女の子だった頃、トムのおじさんが住んでいるアパートは、立派な大邸宅で,その裏には素晴らしい庭園が広がっていました。女の子だったおばあさんは、いつも、その庭園で遊んでいたのです。トムは、摩訶不思議な方法で、昔の庭園に入りこんで、ハティという女の子だったおばあさんと遊んでいたのですね。
なぜ、トムが昔の庭園に入りこんでいたのかという謎については、ぜひ本で読んでみて下さいね。

さて、そろそろ、この物語とヨガがどうつながっているのかということについて考えてみることにしましょう。

思い出は変わらない

枯れた木から葉が茂る木への移り変わり

おばあさんのハティとトムは、いろいろなことを語り合う中で、庭園にあったモミの木について話しました。モミの木は、ハティが覚えている限りずっと庭園のシンボルツリーとしてそこにありました。けれども、ある夜、雷に打たれて倒れてしまったのです。
その時、ハティは、この庭園は自分が大人になってもずっとこのままあると思いこんでいたけれども、そうではないのだということに気がついたと言います。

トム、そのときだよ。庭もたえずかわっているってことにわたしが気がついたのは。かわらないものなんて、なにひとつないものね。わたしたちの思い出のほかには。

フィリパ・ピアス. 訳 高杉一郎. 『トムは真夜中の庭で』. 岩波少年文庫. 2014. p,335

変わらないものなんて何ひとつない。これは、『ヨガ・スートラ』にも書かれていることです。『ヨガ・スートラ』には、全てのものは絶えず変わっていくと書かれています。

昔は素晴らしかった庭園は、今はゴミ箱の並ぶ舗装された空き地になってしまいました。
昔は綺麗な大邸宅だったのに、今はアパートに改造されてしまいました。
昔は女の子だったハティも、今ではおばあさんになりました。

トムは、自分が生きている今という時とハティが女の子だった過去とを行き来しながら、全てのものは変わるという事実を、まざまざと目の当たりにします。そして読者もまたトムと共に、全てのものは変わってゆくのだということを直に体験していくことになるのです。

けれども、ハティは、変わらないものは私達の思い出だけだと言いました。
『ヨガ・スートラ』でも変わらないものがただ一つだけあり、それはプルシャというものだと書かれています。決して変わらない永遠のプルシャがどんなものかということについては、『ヨガ・スートラ』でも具体的に語られていません。永遠のプルシャは、言葉では語れないようなものだということなのです。ですから、プルシャがどんなものかは各自が想像したり考えたり、瞑想によって悟ったりするしかないわけですが、ピアスは、ハティのセリフを通して、決して変わらないものは、楽しかった思い出だけだと語りました。

庭園という形がなくなってしまった後も、庭園の美しかった思い出はハティの心の中にちゃんと残っています。楽しかった思い出というものは、どんなに時がたってもなくならずに心の中に残るものではないでしょうか。そして、それは、人が生きていく上で慰めになったり、励みになったりしてくれるものではないかなと私は思います。
おばあさんになったハティも、夫に先立たれ、息子を戦争で失くして寂しい思いをしていましたが、庭園の楽しかった思い出を慰めに生きているのです。

そんなことを考えた時、楽しかった思い出というものは、プルシャにとても近いものなのではないかと私は思ったのですが、みなさんはいかがでしょうか?

ピアスは、過去の邸宅と庭園、アパートになった今の邸宅の様子などを目に見えるように事細かに描写してくれます。ですから、読者はトムと共に過去にタイムスリップしたり、現代に戻ってきたりすることができるのです。

『トムは真夜中の庭で』は、まさしく、大人も楽しめる傑作だと思います。みなさん、ぜひ、手に取ってみて下さいね。