緑の葉のフレームの中の4人家族のイラストとタイトル

『木かげの家の小人たち』~ 一杯のミルクを運ぶブレない信念 ~

みなさん、こんにちは。丘紫真璃です。
前回は、イギリスの小人の物語を紹介しましたが、今回は、日本の小人の物語『木かげの家の小人たち』を紹介したいと思います。
作者のいぬいとみこは、『ながいながいペンギンの話』や『北極のムーシカミーシカ』など、数々の楽しい児童文学作品を、日本の子どもたちに届け続けた名児童文学作家です。
その中でも、第1回国際アンデルセン賞国内賞を受賞した『木かげの家の小人たち』は、作者の強い気持ちがひしひしと伝わってくる名作だと思います。
イギリス教師から預かった小人家族を、第二次世界大戦という恐ろしい時代に守りぬいた女の子の物語。読み始めたら、ページをめくる手が止まりません。
そんな日本の小人の名作物語とヨガの関係を、みなさんと考えていきたいと思います。

作者自身の戦時中の思いから生まれた物語

作者のいぬいとみこは、1924年生まれ。京都の平安女学院専攻部保育科を卒業した後は、各地の幼稚園で勤務します。終戦後には、教会附属の保育園で働きながら、児童文学雑誌に投稿するようになりました。
1950年には日本児童文学者協会新人会に入り、佐藤さとるなどと共に同人誌『豆の木』を創刊します。同じ年に岩波少年文庫に入社して、石井桃子の助手として編集の仕事に携わりました。
1959年に刊行した『木かげの家の小人たち』を書いたきっかけを、いぬいとみこはあとがきで次のように語っています。

私はピーター・パンや妖精のパックと知り合いになり、暗い戦争の日々、敵国の妖精たちを愛することに後ろめたさを感じながらも、どうしても、その小さい人びとを大切に思わないわけにゆきませんでした。しかし、そうはいっても、それは後ろめたさを感じながらの、ひそやかな、ひきょうな、逃げごしの愛し方であったことも事実なのです。そこをごまかすことは許すことができない、そこをはっきりと書いてみたい……と、私は長いこと考えつづけました

いぬいとみこ. 『木かげの家の小人たち』. 福音館書店. 2002. p,296

作者自身のこうした思いから、戦争という恐ろしい時代に、イギリス生まれの小人たちを守り続けた少女の物語が生まれたのです。

毎日一杯のミルクを

窓辺に置かれた水色のグラスに入った牛乳

物語は、大正2年の夏休みからはじまります。小学3年生だった森山達夫は、英語教師のミス・マクラクランから古めかしいバスケットを受け取ります。彼女は真剣な口調で、達夫にこんなことを言いました。

「この中にいます「小さい人たち」のために、ミルクを運んでくださいますか。毎日、まどのしきいのところに、一ぱいのミルクを出しておくのです!」

いぬいとみこ. 『木かげの家の小人たち』. 福音館書店. 2002. p,21

ミス・マクラクランが達夫に渡したバスケットの中には、小人の夫婦と空色のガラスのコップが入っていました。この空色のコップにミルクを入れて、窓のしきいのところに置いておかなければならないというのです。
小人はやたらに人に見られるのを嫌がり、心をゆるした人にしか姿を見せないものらしいのですが、小人夫婦は達夫に心をゆるしてくれました。そこで、達夫は、小人たちがほかの誰にも見られないように気をつけながら、毎日ミルクをやることを約束します。

こうして、森山達夫は東京郊外にある自宅に、小人の夫婦が入っているバスケットを持って帰りました。そして、滅多に人が立ち寄らない「本の小部屋」と呼ばれている書庫の棚の上に、小人の夫婦の住まいを作ってやったのです。そのそばには、明かりとりの窓がついていたので日光が入ってきますし、おまけに、人に見られる心配もない場所でした。
達夫は、小人の住まいを作った本棚の本をぬいてひみつの階段を作り、そこをよじのぼって、小人たちの様子を見ることができるように工夫しました。
そして、毎日、明かりとりの窓のしきいにミルクを入れた空色のコップを置き続けたのです。

達夫は日に一度、空いろのあのガラスのコップに牛乳をたっぷり入れて本棚をよじのぼると、明かりとりのまどのまどじきいにおいてきました。ここだったら、外からのぞかれる心配はありません。ガラスごしに入ってくる日光が、達夫のもってきた空いろのコップにかがやくと、少し重くるしい本の小部屋の中が、きゅうにはればれとあかるくなる光景は、いくど見てもたのしいものでした。 この部屋にすむ「小さい人たち」のいのちが、じぶんの運ぶ一ぱいのミルクでささえられているのだと思うと、達夫は胸がふるえるようなほこらしい責任感を感じました。

いぬいとみこ. 『木かげの家の小人たち』. 福音館書店. 2002. p,27

やがて、小人夫婦には二人の子どもが生まれ、小人の4人家族はとても平和に暮らします。
達夫が大きくなると、ミルク運びの役目は妹のゆかりに受け継がれました。ゆかりが病気で若くして亡くなってしまった頃、今度は達夫の家にいとこの透子がやってきて、ミルク運びの役目を引き受けました。
やがて、達夫と透子が結婚して3人の子どもに恵まれると、子どもたちがミルク運びの役目を引き受けました。長男の哲も、次男の信も、末っ子のゆりも欠かさず、小人たちにミルクを運ぶ仕事をこなしてきたのです。今は、末っ子のゆりが忠実に、ミルク運びを行っていました。
けれども、そんな平和な習慣を戦争が壊していくことになるのです。

戦争に翻弄されながら

第二次世界大戦中の上空を飛ぶ4機の戦闘機

第二次世界大戦が開始された頃、英文学者となっていた森山達夫は戦争反対を公言しました。そのことがきっかけで達夫は警察につかまり、牢屋に入れられてしまいます。放っておけば栄養失調になるような過酷な環境の牢屋生活を強いられた達夫のために、妻となっていた透子は、差し入れの食料を欠かさず届けるようになりました。

学校では、国のためになるけなげな少国民になることを毎日教えるようになりました。学校の大きな目的は、児童を鍛えて立派な国民にすることであり、丈夫な児童になるための駆け足錬成もよくさせられました。けれども、身体の弱いゆりは、過酷な駆け足錬成についていけず、倒れてしまうことがよくあったのです。そんな時、先生は軽蔑のまなざしをゆりにむけてくるのでした。
次男の信もまた、ゆりを怒ったように、にらみつけるようになってしまいました。信は真剣に軍人を志すようになり、妹のゆりの身体が弱いことや、小人のために一杯のミルクを運び続けていることに腹が立ってたまらなかったのです。
信は怒って、ゆりに言います。

「非常時にそんなこと(ミルク運び)してちゃいけないんだよ! うちではヤミの牛乳をとってるんだろう? 戦地じゃ、病気の兵隊さんにのませる牛乳だって十分ないっていうのに!」

いぬいとみこ. 『木かげの家の小人たち』. 福音館書店. 2002. p,44

牛乳がぜいたく品だということも、非常時にミルクを飲むことは非国民と言われても仕方のないことかもしれないということも、ゆりにはわかっていました。それでもゆりは、自分の中に、ある強い気持ちが芽生えてきたのを悟ります。

ゆりはじぶんが何よりも小人たちを愛しているのを知りました。森山家に生まれた子どもとして、習慣として、バルボーたち(小人たち)を養っているのではなくて、ゆりはじぶんが心から小人たちの命を守ろうと思っていたのを知りました。

いぬいとみこ. 『木かげの家の小人たち』. 福音館書店. 2002. pp,108-109

小人を守ろうという強い思いから、ゆりは集団疎開に行くのはやめることにしました。集団疎開には、小人を連れていけないからです。家族会議の末、ゆりは1人で信州の野尻にある遠い親戚の家で疎開することに決まります。そうして、ゆりは会ったこともない2人の遠い親戚のおばさんが住む信州へ、小人を連れて疎開することになるのです。

どんなことをしても小人を守る

牛乳の入った水色のグラスを手にもつ少女のイラスト

ゆりは信州の親戚の家では、厄介者扱いをされました。親戚のおばさんたちは、ゆりのことを口が一つ増えたと思っていたのです。
身体の弱いゆりですが、信州の家では懸命に働かなければなりませんでした。また、東京では母が小人たちのためにミルクを工面してくれましたが、信州ではそうはいきません。ゆりは、クラスメイトの男の子がヤギを飼っていることを知り、その子の家の草刈りを手伝う代わりにヤギの乳を分けてもらうことにしました。そうして、クラスメイトの男の子のヤギの乳や母が時々送ってくれるミルク缶などで、ゆりは苦労しながらもどうにか、小人に一杯のミルクをあげ続けました。

ところが、東京大空襲で自宅が焼けてしまったという知らせを受け取った時、ゆりは心労のために倒れてしまい、高熱を出してベッドから動けなくなってしまいます。
ゆりは、とうとう、小人たちにミルクをあげることができなくなってしまったのです。

人間がコップにミルクを入れてくれない場合、その人のそばから去らなければならないのが、小人の世界の掟でした。小人たちは病気のゆりを置き去りにするのは嫌だったのですが、掟のために仕方なくゆりのそばから離れ、野原に出ていってしまいます。

小人を守るという強い軸

薄暗い机の上の本の横に置かれた水色のグラスに入った牛乳

野原に出ていった小人たちがどうやって暮らしていたのかということや、ゆりがどのようにして小人を取り戻したのかということ、その後の森山家の人たちのことは、本を読んでいただくことに致しましょう。

さて、この本とヨガのつながりを考えてみた時、やはり、ゆりが病気で倒れるギリギリまで小人のために一杯のミルクをあげ続けたという点になるのではないかと思います。
両親から離れ、見たこともない遠い親戚のおばさんの家で厄介者扱いをされながら暮らすのは、並大抵のことではなかっただろうと思います。おまけに身体が弱いながらも懸命に働かなければならず、それは苦しかったことでしょう。でも、そんな苦しい生活をゆりが乗り切ってこられたのは、「わたしが小人を守る」という強い思いではないでしょうか。

ヨガでは、自分の軸というものをしっかりと確立することが大切だと言われています。
自分の軸というものをしっかりと確立している人は、周りの言動に左右されることはありません。どんなことがあってもしっかりと自分を保ち続けていることができ、心が荒立つこともないのです。ヨギーは、常に心が安定している状態を目指して、日々、修行をしています。

そう考えた時、「わたしが小人を守る」という強い信念をブレることなく持ち続け、それを立派に行動に移してきたゆりは、十分にヨギーであるということができるでしょう。

現代にも通じる小人の少女、アイリスの祈り

頭上から光がさす薄暗い室内で手を合わせて祈る少女

小人たちの影響で、自分の信念を貫き続けたのは、ゆりだけではありません。
ゆりの父親でありイギリス人の教師から小人を預かった本人である達夫が戦争反対を唱えたのは、小人の影響があったということが物語の中で語られています。
自分が愛して守ってきた小人たちが生まれたイギリスという国が敵国だと、達夫はどうしても言うことができませんでした。だから、達夫は牢屋に入れられても、戦争反対の意見を主張し続けたのです。
同じく、小人にミルクを運び続けた経験のある妻の透子もまた、戦争反対を主張する夫に心から賛成し、強い気持ちで夫を支え続けました。
小人たちを守ってきた経験が、ゆりの両親の信念にもつながっていったのです。

ゆりが病気で倒れ、ミルク運びが難しくなってしまった時、小人の家族はとても悲しみ、ゆりのそばを離れるのがつらくてたまりませんでした。小人の少女は、戦争が終わってゆりのもとに帰っていける日まで口をきかないと決心し、おばあさんからゆずられた不思議な力を持つという編み棒を使って七色のリボンを編みはじめます。

ある日、アイリス(小人の少女)は、いっしょけんめい手をうごかしつづけているうちに、このリボンが長く長くなっていって、アイリスの住んでいるこの世界をぐるっと一まわりすることができたら、そのとき地球上から恐ろしい「戦争」がなくなって、ゆりのように苦しむたくさんの子どもがひとりもいなくなるはずだ……とむちゅうで考えはじめました。 ゆりをしあわせにするためには、森山家じゅうを平和にしなければなりません。森山家をしあわせにするためには、日本じゅうを平和にしなければ、そして日本じゅうをしあわせにするためには、世界じゅうを平和にしなければなりません。

いぬいとみこ. 『木かげの家の小人たち』. 福音館書店. 2002. pp,260-261

小人の少女アイリスの祈りは今の時代にも通じる祈りのように、私には思えて仕方がありません。コロナが世界を襲い、世界中の人々に暗い影を落としました。今も各地で震災や戦争、物価高などの世界中に落ちている暗い影は、なかなか明るくなる兆しを見せません。そんな暗い世の中で生きる私たちにもまた、小人の少女アイリスの祈りが必要なのではないでしょうか。そして、ゆりや達夫、透子のように、どんな暗い環境になってもブレない強い信念が必要になってくるのではないでしょうか。

第二次世界大戦中の物語ではありますが、決して古い時代の物語ではありません。むしろ、今こそ私たちが読まなければならない物語のような気がします。
児童文学ですが、この本はむしろ大人のみなさんにこそ読んでいただきたい本です。ご興味ある方はぜひ、手に取って読んでみて下さい。