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現代社会は情報があふれているからこそ、どんな情報を取り入れて、何を信じたらいいのかを考えることが大きなテーマになっていると思います。
知識の中には、人を幸せに導いてくれるものもあれば、迷わせるものもあります。そんな中、ヨガの練習で得られる知識は純粋なものです。
今回は、『バガヴァッド·ギーター』の説く、苦悩を生む知識と幸福に導いてくれる知識について考えてみましょう。
『バガヴァッド·ギーター』では知識を3種類に説く

どんな情報を受け取る時でも、それがどのような情報なのかを見極める必要があります。情報の中には、自分にとって不要なものや悪い影響を与えるものもあります。また、心を強く惹きつけ、束縛するものもありますね。
教典『バガヴァッド·ギーター』では、知識を3種類に分類します。それらは、純粋さを高めるサトヴィックな知識、思考を激しく動かすラジャシックな知識、迷想を生じさせるタマシックな知識です。それぞれ、見ていきましょう。
サットヴァ性(純粋)の知識
人がその知識により、万物の中に唯一不変の状態を認め、区別されたものの中に区別されないものを認めるとき、それを純粋な知識と知れ(18章21節)
訳 上村勝彦. 2018. 『バガヴァッド·ギーター』第34 刷. 岩波書店. p,134
ヨガ的に考えるサトヴィック(純粋)な知識とは、本質への知識です。それは、目で見える外見的な知識ではありません。
人であっても、犬や猫といったその他の動物であっても、植物であっても、その内側に宿る美しい生命には違いがありません。どんな姿をしていても区別なく本質への愛を感じられた時、その心が揺らぐことはありません。
人はその時の環境によって、優しくなれる時もあれば、機嫌が悪くなる時もあり、怠慢になることも必ずあります。目の前の人の状態が良くなくても、その人の本質が汚されるわけではありません。外見上の姿ではなく本質を見極められるようになると、誰に対しても深い愛を忘れずにいられますね。
ラジャス性(激質)の知識
またその知識が万物の中に、各種各様の状態を別個のものと認める時、それを激質な知識と知れ。(18章22節)
訳 上村勝彦. 2018. 『バガヴァッド·ギーター』第34 刷. 岩波書店. p,134
様々な状態にあるものに対して区別し、差別するような知識は、ラジャスな性質を持ち、心を乱します。
あらゆるものを「良い/悪い」「高価/安物」「美しい/醜い」「優秀/無能」といった様々な価値観でジャッジし、区別するような考えは、本質とは遠いものです。私たちが何かを評価しようとする時に使う価値観は、自分の今までの経験という、とても狭い色眼鏡によって作られたものです。
例えば、自分は周囲の人よりも太っていて醜いと卑下していた人がいるとします。しかし、海外に行ったら、その国の人と比べて自分がとても痩せ型だと気がつくことがあります。私たちが何かを判断する時には、たまたま自分が見えている周囲とだけ比較したり、関わっている集団の中の常識に囚われていたりして、間違った評価をしてしまう可能性が高いです。
そのような価値観に囚われていると、あらゆる物事を見た時に「これは良い、悪い」と思考で評価して、「自分の仲間」「自分とは別」「敵対すべき相手」とったレッテルを貼ってしまいます。その後で新しい情報を得たとしても、多角的に判断ができず、狭い視野でしか物事を考えることができなくなってしまいます。
タマス性(暗い)の知識
また、一つの対象に対し、あたかもすべてであるかのように執着する、根拠のない、真理に暗い小知は、暗質的な知識と言われる。(18章23節)
訳 上村勝彦. 2018. 『バガヴァッド·ギーター』第34 刷. 岩波書店. p,134
ある特定の思想を持つような<b>執着の強い知識は、人々を迷わせるタマス的な知識</b>です。
例えば、宗教や理念は、束縛が強くなりやすいので注意が必要な場合があります。企業によっては社風を大切にすることもあると思いますが、社員をコントロールするために独自の常識を共有しすぎてしまうことがあります。同調圧力的なものも当てはまります。
例えば、
- 若者は先輩とお酒を飲みに行って、親睦を深めることを積極的にするべき。
- 家庭よりも会社を優先するのは当たり前。家族の用事で有給休暇を使うなんて常識はずれ。
- 会社と自分の成長のためなら、深夜まで必死で働くのは当たり前。
このような価値観を、会社が規則にしてしまうと違法になってしまいますが、社会人になってからずっと同じような環境にいると、「これが社会の常識」と思い込んでしまうことがあります。
逆に、全ての人は公平であるべきだとリベラル的な思想を持っていたとしても、それが行きすぎてしまうとカルト的になってしまうこともあります。同様に、どんな良いことであっても「これが絶対の正義」と思うことは危険です。健康志向であっても、「この食事法が絶対」と一つの方法のみを信じた結果、体調を壊す人もいます。
世の中には、100%の正解はありません。なぜなら、全てはバランスだからです。
一つのことに盲信してしまうのは、危険ですね。
サットヴァ性の知識は体験の中から生まれる

純粋な知識は、教科書で覚えるものではありません。ヨガでは、体験を伴う知識を最も大切にしており、言葉として理解しただけのものではないと考えます。
例えば、教典を開くと、「全てはブラフマン(宇宙の根本原理)である」と書いてあるかもしれません。それは正しい知識かもしれませんが、その言葉自体を盲目的に信仰しすぎることによって、正しい言葉であってもタマス的な(暗い)知識になってしまうことがあります。
ヨガの聖典は、神々の言葉と呼ばれるサンスクリット語で書かれていますが、サンスクリット語で書かれた言葉のみが正しいのであれば、世界中の他の言語で語られる真実を認められなくなってしまいます。
体験というのは、言語や文化の壁を越える力があります。
ヨガは、宗教や文化背景の違う多くの人たちによって、世界中で実践されています。そして、多くの人が心の平和を感じて、穏やかで平和な心の感覚を味わっています。また、多くの人が一体感や温かい愛を感じています。その美しい体験こそが、ヨガで手に入れることのできる真実です。
言語での表現は、その人の今まで生きてきた人生が詰まった言葉になります。言語は受け取る人の好みがあるので、ある人にとっては感動的なシェアであっても、全くピンとこない人もいます。また、同じ言葉を聞いても、全く違う解釈が生まれることもあります。
だからこそ、本当の意味で「知る」ということは、自分自身で経験することが大切なのですね。
色眼鏡を外して感じたままを学ぶ練習

ヨガの練習は、自分が今まで装着してきた色眼鏡を外す練習です。
私たちは、分厚い色眼鏡をかけているため、自分自身のことさえもありのままで見ることができていません。
アーサナ(ポーズの練習)を行っているだけでも、自然と学びがあります。
普段運動をしていない人がヨガのポーズを行うと、「こんなところに筋肉があったんだ」という驚きの発見があります。日常では無意識に体を動かしているので、体のどの筋肉を使って、どこに重心を預けて動作を行っているのか、全く気が付けていないのですね。
何度か練習を行ううちに、知らなかった自分の体のことが分かってくると、体との関係性がまるで他人から友人になったような嬉しさがあるかもしれません。
運動習慣がある人も同じです。ジムに行く習慣があったり、球技などのスポーツを長年行っていたりすると、「自分は人よりも体への知識がある」と思い込みがちです。しかし、ヨガ教室に初めて行った時に、周りの人ができているポーズが全くできず「ヨガは自分には向いていない」と逃げ出したくなってしまう人もいるでしょう。
スポーツが得意というプライドを捨ててヨガを練習することで、今まで気がつかなかった自分の動作の癖に気がつくことができます。そして、体のことをより深く理解できたことで、元々行っていたスポーツをするときの意識も変わるかもしれません。
このように、体のことが分かってくると、次は自分の心と向き合う段階があります。その先には、自分自身の生命との対話もあるかもしれません。
「良い悪い」といった色をつけることなく、真実だけを見て得られる純粋な知識を経験していくことがヨガなのでしょうね。