古代インドのヒンドゥー教の神と女神のイラスト

混沌の中の秩序~沢山の神様と、たった1つのブラフマン~

ヨガの生まれた国インドは多神教の国だと聞いたことがある人も多いのではないでしょうか?一方で『バガヴァッド・ギーター』の教典に見られる哲学は一元論だと聞いたことがある人もいるでしょう。

世界はたった1つのブラフマン(宇宙の根本原理)から誕生したのに、インドには沢山の神様がいる。

そんな矛盾に対してのクリシュナの答えをご紹介します。

「宗教ってよく分からない、何となく怖い。」と思っている人も、ヨガの神様の説く神の存在について学ぶと先入観がすっとなくなるかもしれません。

インド的な世界の始まりで見る多神教と一元論

インドのヒンドゥー教寺院のカパーリーシュヴァラル寺院の一部
宗教って何だろう?と考える時に、”全知全能の神様の存在”をイメージする人も多いと思います。

キリスト教やイスラム教の様に世界的に人口の多い宗教は一神教です。

一神教では、たった1人の絶対的な神様が世界を作って、山や川を作り、人間も作りました。一般的に宗教と言われてイメージするのは一神教的なものではないでしょうか。

しかし、インドの世界観はだいぶ違っています。

カオス(無秩序)なインドの宗教観

インドはとても大きい国です。もともと各地にあった土着の宗教を統合する形で現在の宗教ヒンドゥー教が出来上がりました。

そのため同じヒンドゥー教徒であっても、信じている神様が違えば世界の創造神話も違う場合があります。

例えば世界の始まりについてみてみましょう。

ヒンドゥー教の3大神の1人であるヴィシュヌ神派の神話では、「ヴィシュヌ神のおへそから蓮の花が咲いて、蓮の中から出てきた創造神ブラフマーが世界を作った」と伝えられています。

それに対してシヴァ派では、「世界の始まりのカオスの中、ヴィシュヌ神とブラフマー神のどちらが先に生まれたのかを言い合っているところ、巨大なリンガ(シヴァ神のシンボル)の中からシヴァ神が現れて、ヴィシュヌ神もブラフマー神もシヴァ神が創造したのだと明かす」という神話が伝えられています。

インドの多神教は多くの信仰を取り込んでいったため、同じ宗教でありながらも地域や信じる神様によって言い伝えが異なります。

この混沌(カオス)こそがインドらしさでもあります。

インドの3大神とは?世界は「創造・維持・破壊」でできている

インドの信仰を1つにまとめる一元論とは?

インドの宗教では、人によって信じるものが全く違うと書きました。

それでは、結局インド人にとって宇宙はなんなのかが良く分からなくなってしまいましたね。

それに対して、クリシュナ神は、多くの神様が存在する多神教を1つにまとめる説明をしてくれています。

しかし、これらの少ない知識を持った人たちの受け取る果報は有限である。天の神々に帰依する人たちは神々に到達し、私(クリシュナ)に帰依する人は私に到達する。(バガヴァッド・ギーター7章22節)

日本の神道と同じように、もともとインドに存在する土着の信仰は、自然界の様々な力を神格化したものです。

例えばシヴァ神の前身として知られるルドラ神は暴風雨の神様です。

嵐は災害によってあらゆるものを破壊する恐ろしい自然災害ですが、嵐が去った後の濡れた土壌には、必ず新しい芽吹きが生まれます。

そのため古代の人々は、嵐の災害が人々から奪いすぎないように、また日照りの時には恵みの神をもたらしてくれるようにと、暴風雨をルドラ神として崇拝しました。

このように多神教では自然界にある様々なエネルギーに対して崇拝します。そのため、とても多くの神様が存在することは自然なことです。

しかし、これらの神様の能力には限りがあります。

例えば太陽神であれば、あらゆる活動を助けるエネルギーを与えてくれますが、疲労を癒すエネルギーには劣っているでしょう。

だからクリシュナは、個々の神様への信仰を「有限」だと表現しました。

多神教では、人々の望みの数だけ神様が存在します。

ヒンドゥー教の祭儀ではガネーシャ神から始まって沢山の神様に順番に祈っていきます。人生を救うためには、沢山の神様から恵みを頂かなくてはいけません。

細分化する多神教の神様を1つにまとめたのは一元論という考え方です。

一元論では、宇宙に存在する全てのものはたった1つのブラフマンであると説きます。

世界には山があり川があり森があります。そこには沢山の動物や人間が暮らし、天界には様々な神様が存在します。これら全てを”別々のもの”としてとらえることもできますが、本質を見ると1つのブラフマンです。

全てはブラフマンから発生し、ブラフマンであり、ブラフマンに帰っていくと考えます。

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個から全体に意識を移していく一元論

急に小難しい話になってしまいましたね。

ブラフマンや一元論については古代から様々な説明がなされてきました。

有名なものでは、宇宙を土に例えた説が『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』という古い教典に書かれており、様々な哲学者によって解説されています。

ブラフマンは土に例えることができます。

土から粘土を作り、様々な形の食器や水瓶、花瓶や家も作ることができます。

私たち人間は出来上がった今の状態を見ながら「これはコップでこれは皿だ」と認識します。もしくは「この焼き物は有名な作家が作ったら高価だ」と優劣を付けようとします。

しかし、本質を見てみると全ては同じ土でしかありません。土であったものが形を変え、いつか壊れたらまた土に帰っていきます。

私たち人間はその時々の目に見える状態のみで評価をしてしまうので、世界の本質に気が付くことができません。

人間だって同じです。本当は大きな地球という惑星の一部でしかありません。

しかし個々が自我を持ってしまったため、人間だけが得をする環境を作り上げて、その人間社会の中でも個々が自分個人に富が集中するようにと願います。その結果、人間同士で争いが絶えないですね。

私たち1人ずつが大きな世界の一部であると感じることができると、争いが少なくなります。自然界から人間だけの快適さのために搾取しすぎた世界は、結局人間にとっても不快な環境を導いてしまいました。

自分と周りの繋がりを感じて、平等に豊かになれる方法を見つけると、結果的に自分自身もより幸福を見つけやすくなります。

だからクリシュナ神は、信仰においても個々の神々に祈るのではなくて、全体の根本であるブラフマンに対しての意識を高めるようにと説いています。

多神教と一元論。どちらもあるのがインドらしさ

夕暮れ時の浅瀬の海で祈りを捧げるインドの男女
バガヴァッド・ギーターで唯一の宇宙原理ブラフマンを説いているのであれば、「もう一元論だけでいいのでは?多神教を信じ続けることに意味があるの?」と考えてしまうかもしれません。

しかし、どちらの信仰も全て認めて包み込むのがインドの多様性です。

バガヴァッド・ギーターでは、人にはそれぞれのダルマ(職務)があり、誰もが自分らしく生きる多様性を認めています。

哲学的に「一元論とは?」と説いても小難しく理屈っぽくてしっくりこない人も沢山います。また、土地で代々信仰してきた神様がいる場合、急にそれを取り上げることも暴力的です。

クリシュナ神は、あらゆる神様に対する信仰も否定しません。また、ヨーガにおいても対立する全ての流派を正しいヨーガだと認めています。

世界はたった1つのブラフマンである。しかし、人の願いの数だけ神様が存在する。

そんな混とんとした中にも秩序があるバランスこそがインドらしさです。

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