蓮華座を組んで横たわる茶色いコスチュームの女性

人生を精一杯生きる!ヨガ哲学にみる「死」について学ぶ理由

ヨガにおいて死への恐怖の克服は大きなテーマの1つです。

ヨガや仏教などの発祥の国インドは死を身近なものとして考える国です。死への恐怖を抱えながら生きている人々にとって、その苦痛からの解放はとても重要な課題でした。

現代を生きる私たちにとって死は日常的に意識するものではないかもしれませんが、全ての人にとって死は必然のものであり、私たちの人生の一部でもあります。

死について考えて受け入れることは、与えられた人生を精一杯生きることにも繋がるのではないでしょうか。

古代の聖者にとっても怖い「死」

灰色の地面にひっそりと置かれた灰色の薔薇
人間として生まれた私たちは、潜在的に死への恐怖を供え持っています。

これは生まれ持った本能の中でとても強いものであり、簡単に克服することはできません。

死への恐怖は潜在的に支えられたものであり、賢者にさえこの煩悩はある。(ヨガ・スートラ2章9節)

ヨガの教典『ヨガ・スートラ』の中では、賢者であっても死への恐怖を備えていると説きます。

人間の種の存続のために必要なものであったのでしょう。生命の天敵が現れた時に、危険を回避するための本能がなければ、生き残って子孫を残すことができません。

危機感を持って生存してきた個体が生き残った結果、現在まで死への恐怖を感じる私たちが存在しているのかもしれません。

生きている人にとって死は必然

ところで現代社会、特に日本で生まれた私たちにとって日常で死につながるような危険は頻繁には現れません。

もしかしたら、ヨガの生まれた古代インドの人たちよりも、私たちの方が死に対する恐怖が薄れている可能性も考えられます。現に自分がいつか死ぬことなんて考えていない人が大半ではないでしょうか。

多くの病は医療の発展で治療できるようになりました。社会衛生の向上によって、深刻な病気を患うリスクも減っています。

それでも死について学ぶ理由は何なのでしょうか?

『バガヴァッド・ギーター』の中でクリシュナ神は、死は生きている人にとって必然のものだと説きます。

生まれた者には死は必定であり、死んだ者に生は必定であるから。それ故、不可避のことがらについて、あなたは嘆くべきではない。(バガヴァッド・ギーター2章27節)

生と死は常に一対のものです。死があるからこそ、私たちの人生は限られたものであると考えることもできます。

この一瞬は今しか感じることができない。そんな尊い時間だから大切にしたいです。

ヨガで死の疑似体験をする

横たわる自分の体を見下ろすもう一人の自分
ヨガの練習は、死への疑似体験だと考えることも可能です。

私たちは死が何かを分からないから怖いと感じます。死を向かえた時に起こる状態を体験することで恐怖心が弱まっていきます。

アーサナで自分を俯瞰する

私たちの意識は通常、自らの身体の中に入り込んでしまっています。

自分と身体の結びつきが強すぎると、「この身体こそが自分である」という認識を手放すことができず、肉体的な衰えや死を強く恐れる原因となります。

まずは、意識と身体の強い付着を少しずつ離すことが大切です。

アーサナでは自分の身体をできるだけ客観的に俯瞰します。普段は無意識に体を動かしているけれど、ヨガのアーサナで外から観察する視点を磨くことによって、身体に対しての執着を弱めていきます。

普段は無意識に身体に支配されているかもしれません。しかし本来あるべき状態は、私たちが身体をコントロールしている状態です。

身体の状態を客観的に観察することで、自分が身体の主となることができます。

また身体は、この世界を人間として生きるために与えられた器です。

寿命を全うするまでは感謝しながら快適な状態にメンテナンスして使わせてもらい、寿命が来た時には感謝して手放すことが大切。それは、大切な洋服が古くなった時に処分するのと同じ感覚です。

シャバ・アーサナ(屍のポーズ)やヨガ・ニードラで

アーサナの練習の最後に行うシャバ・アーサナやヨガ・ニードラも身体への執着を手放すのに最適です。

特にヨガ・ニードラでは、自分の身体全体を少し離れたところから観察する練習をします。

時には、部屋全体を観察しながら、その部屋の中で横たわる身体を客観視します。それはまさに魂が身体から抜けた幽体離脱の状態です。

また自分の身体を動かさないで、意識だけを各部位に向けていきます。

物質としての自分の存在をしっかりと確認しながら、その身体を観察する意識は別に存在することを知ることができます。

意識が身体から離れた時にどのように感じるのか?不思議と恐怖感はないはずです。

そして、普段は一体化して気が付けない自分の身体の存在に愛おしさを感じるかもしれません。

呼吸を止めるプラーナーヤーマ(調気法)

プラーナーヤーマは、呼吸をコントロールしながら身体の中のエネルギーの流れを制御するヨガのテクニックです。

ハタヨガの教典では、プラーナ(気)こそが生の条件だと説きます。

一般に、気が体内にとどまる間は生きていると言われる。気がカラダから出ていくのを死という。だから気の動きを制御しなければならない。(ハタヨガ・プラディーピカ2勝3節)

生命エネルギーであるプラーナ(気)は、私たちが生きている間、身体の中で動き続けています。身体を動かすことも、呼吸も、消化吸収などの内臓の働きも、思考も、全てプラーナの働きです。

ヨガのプラーナーヤーマ(調気法)では、クンバカ(休息)を行うことで体内のプラーナの動きを一時的に制止させます。

プラーナの動きがなくなると、身体も心も完全に鎮まります。

本来、身体の中のプラーナが動かなくなることは、死ぬ時まで体験しないことです。呼吸それ自体は寝ている時さえ続くものであり、止まることは本来死ぬまで起こり得ません。

しかし、プラーナーヤーマの練習によって、呼吸が止まった完全な寂静を体験すると、それは平穏で心地が良いものだと知ることができます。

クンバカ(休息)は長い期間をかけてゆっくりと練習しないと危険なものですが、その心地よさは何事にも代えがたい物であり、ヨガ修行者の心を捕えます。

思考を完全に止めて自我を手放す瞑想

ヨガの実践で最も重要なものは瞑想です。

瞑想は導入部分では様々な種類がありますが、最終的にはあらゆる心の働きが止まったサマディ(三昧)という境地に到達します。

私たちの心は、本来生きている限り止まることがありません。例えば、寝ている時にも止まっていると考える人もいるでしょう。

しかし、ヨガ・スートラでは睡眠さえも心の働きの1つだと説きます。

人生は心が作り出す!ヨガ・スートラが説く5つの心の働き

私たちは思考の働きによって自分自身を認識しています。つまり、思考を止めるということは自我を手放すことにもなり、それはとても怖いことです。

ヨガではアハンカーラ(自我意識)と呼ばれる自分に対する認識も放棄します。その時初めてサマディ(三昧)と呼ばれる深い寂静の状態を体験することができます。

自分というものが無くなっても、そこには幸福の感覚が残ります。

瞑想から覚めた時には五感から様々な情報が入ってきますが、自我という色眼鏡を外したことで、鳥の声、風が肌に触れる感覚、あらゆるものが新鮮に感じるでしょう。

この世界に存在しているあらゆるものに対して平等に愛することができるかもしれません。

死を受け入れることによって生を楽しめる

花畑で両手を広げて空を見上げる女性
ヨガによって感じる感覚は個人差があります。そのため、ヨガでも流派が違えば表現が違い、同じような瞑想を行っても別の感覚が生まれることもあります。

瞑想によって自分個人に対する固執がなくなった時、もうこの世界には興味がなくなるのか?というと、そうではありません。

自分という小さい個我に固執しないからこそ、大きな世界を感じて楽しめるようになります。その時改めて世界を見ると、全てが新鮮で美しいはずです。

生の輝きを感じながら、いずれ死が訪れても安心して受け入れられるようにする。それがヨガの実践の大きな目的ではないでしょうか。

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