海に向かって座る女性の背中

ヨガの求める幸せとは?至福と快楽の違い

ヨガは幸せを求めるためのメソッドです。幸せを手にするためには、何が幸福なのかを理解することが大切です。

ヨガ哲学では、喜びに見えるものの中にも不幸の原因が潜んでいると考えます。

今回は、どのような幸せを求めたら穏やかに生きることができるのかを、古代の教典の言葉で説いていきます。

ウパニシャッド教典に書かれた至福と快楽の違い

お金を追い求める人々
インド哲学の中でも権威のある『カタ・ウパニシャッド』と呼ばれる教典があります。

カタ・ウパニシャッドの中で死神ヤマは、正しい幸福と間違った歓びについて定義します。

方には至福があり、他方には快適なものがある。両者は目的を異にするが、いずれも人間を束縛する。その両者のうちで至福をとる者には善があり、快楽なものを選ぶものは(人生の)目的からはずれる。(カタ・ウパニシャッド2勝1節)

インドの哲学者シャンカラの解説では、この2つは「知識」と「無知」の性質を持っています。

知識と無知は互いに対立する関係にあり、両方を追いかけることができません。

幸福も快適なものも人間に近づいてくる。賢明な者は、熟考したうえで、2種を区別する。賢者は快適な者よりも幸福を選び、愚者は至福よりも快適なものを選ぶからである。(カタ・ウパニシャッド2章2節)

至福と快楽はともに私たちのもとに現れます。しかし、私たちが手にすることができるのはたった1つです。

だから、ヨガを志す賢者はしっかりと考えて至高を目指すことを決心します。

本当の幸福、至福は自分で決意しないと手に入れることができません。なぜならば、相対する快楽の誘惑はとても強いからです。

富や財は儚い快楽

人を魅了する快楽には、どのようなものがあるのでしょうか?

カタ・ウパニシャッドの中で死神は、少年に様々な誘惑をします。それは、100歳生きることのできる子孫、沢山の家畜、象、黄金、馬などです。そのほかにも、広大な土地や、自分が望む限りの寿命、美女、美貌や性愛などを死神は少年に持ちかけました。

しかし、世界に存在するあらゆる富や誘惑を目にしても少年は受け取りませんでした。「死すべき者にとってそれらは儚いもの。感覚器官の活力を衰えさせるもの。」だと言います。

今ここにあげたような人を喜ばすものは、全て無常なものです。

目で見て美しい、味覚を満足させる食事、他者からの尊敬や賞賛を聞くこと、そういった財を少しでも長く維持するための寿命。これらは5つの感覚器官を楽しませます。

しかし、かたちのあるものには必ず終わりがあります。感覚器官を楽しませる快楽は、必ず失う儚いものであると少年は知っていました。

このような無常な喜びを死神ヤマは「財宝でできた鎖」と呼びます。

人々は欲望によって束縛されて自由を失います。これらの快楽は「無知」によるものです。教典『ヨガ・スートラ』では、無知を最も大きな苦しみの原因だと説きます。

苦しみを生み出す思い込み「無明(アヴィディアー)」とは

至福に導く知識は与えられるもの

木の下に座るグルの話を聞く人々
物質的な喜びを手放すことによって、はじめて本当の幸せを求めることができます。

ヨガ哲学において、至福を手に入れる唯一の条件は「知識」です。ヨガでは、真実の光によって苦しみを消し去り、途切れることのない幸福を手に入れます。

この知識は、伝統的にグル(師)から弟子に受け継がれるものだと考えられています。

これ(アートマン)は普通の人に説き示されたのでは、いろいろと思考しても容易に理解することができない。(しかし)他人から説き示されなければ、これに達する道はない。(カタ・ウパニシャッド2章8節)

ヨガではアートマンと呼ばれる本当の自分を見つけることが至福への道だと説きます。

このアートマンについては、様々な教典の中で書かれているので知識として言葉で知ることは容易です。

しかし、本当のアートマンを知ろうとしたら文字としての知識では学ぶことができません。ヨガにおいての知識「知る」ということは、実際に体験することだからです。

死神ヤマも「他人から説き示されなければ達することができない」と言いました。他人とは、すでにアートマンを自身の体験から正しく理解している人です。

インドでは知識を与えてくれる先生のことをグル(師)と呼び、自分の本当の親のように尊敬します。また、知識はどのような財宝よりも価値があると考えます。

カタ・ウパニシャッドでは死神ヤマが先生となって少年に真実を説き示します。

では、ヨガにとっての先生とは?

ヨガ・スートラでは、イシュワラという神こそが先生だと説きます。

イシュワラは時間による制約を受けない存在であるため、古代のグルにとってもグルであった。(ヨガ・スートラ1章26節)

イシュワラとは、物質世界に束縛されないプルシャ(真我)だとヨガ・スートラは説きます。

人間を惑わすあらゆる誘惑に無関心で、自分の内側からあふれる穏やかな平和と幸せにとどまることができるイシュワラは、私たちを同じ状態に導いてくれます。

カタ・ウパニシャッドでは死神が、ヨガ・スートラでは神が先生。なんだか心強そうですね。

ギーターの説く幸せは一見苦くて後で甘い

『バガヴァッド・ギーター』の中でも正しい幸福について説いています。

最初は毒のようで結末は甘露のような幸福、アートマン認識の清澄さから生ずる幸福、それは純質的な幸福と言われる。(バガヴァッド・ギーター18章37節)

至福は目に見えやすい快楽と違い、自分の感覚を研ぎ澄ませて初めて感じることができます。

真実(アートマン)を知るためには、ヨガによって自分を磨く必要があります。その道筋の中で、今まで執着していたものを放棄することも必要です。

例えば、毎日夜更かししていた人が、ヨガのために早寝早起きに帰るのは簡単ではないでしょう。最初はつらいと思うかもしれません。

しかし、目的を忘れずにヨガを実践することで、必ず何倍もの幸せを感じられるようになります。

至福は全てを包み込むもの

沈む夕日に向かって座る女性の背中
人生には喜びや苦しみが必ず現れますが、「全ては自分の内側から現れるのだと知ること」がヨガです。

無常なものたちに属する永遠のもの、知性ある者たちの知性、多に属する一者、さまざまの欲望を与えるもの、それが自分のなかに存在するのを洞察する賢者たち、―永遠の平安は彼らにあり、他の物にはない。(カタ・ウパニシャッド5章13節)

ヨガでサマディに到達すると、アートマン(本当の自分)にのみ満足して物質世界への関心は全くなくなるのか?

ヨガ哲学を勉強した人の中にはこのように考える人がいます。卓上の理論だけで考えると間違った結論にたどり着いてしまいます。

ヨガや瞑想を一生懸命実践して悟りを啓いたという偉い先生たちを思い浮かべてください。すごい先生でも、人間としての生活を続けます。

悟ったあとでも身体的な痛みや病気があり、人との別れもあれば、幸せな時間や美味しい食事も、財宝などの誘惑も存在し続けています。

しかし、心がそれらに束縛されなくなります。

「すべては自分のなかに存在する」、これを理解することによって心が自由になって束縛されません。

その感覚器官の保持を、人々はヨガと理解する。そのとき人は心を散らさなくなる。なぜならば、ヨーガは(内的な力の)発現であり、(最高の帰趨(キスウ)への)没入であるから。(カタ・ウパニシャッド6章11節)

ヨガでは、内側に存在するアートマンを見つけるために、感覚器官を制御して、自分への意識を高めます。外の対象に対して意識が向かなくなると、自然と思考も制御されます。

そして、自分の深いところにある平和な輝きを見つけます。

物質的な変化に対して客観的に、冷静でいられる自分を築き上げて、人生で体験することができる全てに感謝ができるようになると、その時人は本当の幸せを見つけられるのではないでしょうか。

参考資料

  1. 服部正明訳「世界の名著・バラモン教典・ウパニシャッド」中央公論社、1969年

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