クリシュナ神とガネーシャ神

インドの神様とヨガから学ぶ「完璧主義」からの卒業

自信が持てなかったり、自分のことを愛せなかったりと苦しむ人は多いようです。

時に自分の生活を見直して、よくない部分を正す努力は必要かもしれませんが、自分自身の存在自体を愛することができないのは悲しいことです。特に完璧主義になりすぎてしまうと、一生懸命に生きていても自分を許すことができなくなってしまいます。

インドの神様やヨガの教えから、完璧主義の手放し方を考えてみましょう。

おっちょこちょいな神様が沢山の人々に愛される

笛を吹くクリシュナ神に集まる女性たち
神様ってどんなイメージですか?全知全能で完璧な存在でしょうか?

ヨガが生まれた国インドの神様は少し違います。

例えば『バガヴァッド・ギーター』でヨガの教えを説いてくれたクリシュナ神も、若い時には集落中の女の子にちょっかいばかり出していました。

もしも完全無敵の存在に対して祈りを捧げるのであればブラフマン(宇宙の根本意識)だけを信仰すればいいはずですが、インドでは人々の要求の数だけ人格をもった神様がいます。

インドの神様は個性豊かで、時に失敗もしますが、そういった人間臭さがよりいっそう愛されます。

ガネーシャ神の失敗談

ガネーシャ神と皿に山積みに盛られたモーダカ
象の頭部をもったガネーシャ神は、インドで最も愛されている神様の1人です。ガネーシャ神の有名な神話をご紹介します。

ガネーシャ神はモーダカという甘い饅頭のようなお菓子が大好きです。

ある日、モーダカをお腹いっぱいに食べたガネーシャ神は、ネズミに乗って外に出かけていました。

道を進んでいると、突然蛇が現れて、ガネーシャ神の乗り物であるネズミが驚いてガネーシャは振り落とされてしまいました。

そして、地面に落ちた時に、ぱんぱんに膨らんでいたお腹が割れてしまって、中からモーダクがゴロゴロと転がってしまいました。

慌てたガネーシャは、必死でモーダクを拾い集めてお腹に戻して一安心していましたが、それを見ていた上空の月に笑われてしまいました。

自分を馬鹿にした月に怒ったガネーシャ神は、月が人々に見られないような呪いをかけました。

その後、月が謝罪をしてきたので許すことになったのですが、今でもガネーシャ神の誕生日には人は月を見ることができません。

自分の失敗を笑われたからと怒って、月が人から見えなくするなんて神様の能力の無駄遣いに思えますが、それだけ感情豊かで、愛嬌のあるガネーシャ神はインドで大人気です。

現代でも、あらゆる祈りの儀式の1番最初にはガネーシャ神のマントラからスタートします。

失敗しても結果を悲観しないようにしよう

クリシュナ神も、結果を求める完璧主義には反対です。

バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナ神は、結果に一喜一憂しないようにと教えてくれています。

アルジュナよ、執着を捨て、成功と失敗を平等のものと見て、ヨガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地であると言われる。(バガヴァッド・ギーター2章47節)

完璧でないと許せない人は、必ず結果を見て世界をジャッジしています。

専門的な勉強をしたら、それを活かせる仕事に就かないと無駄になると考えたり、ヨガで教わったポーズができないと「自分はできない」ということに意識が向いて苦しくなったりしてしまいます。

クリシュナ神は、結果よりも行為そのものが大切だと説きます。

ヨガであれば、練習を一生懸命行うことが大切。結果であるポーズの完成度にばかり意識が向いていると、もっと大切なことに気が付くことができません。

趣味ならともかく、ビジネスの場面では失敗が許されないと考える人も多いのではないでしょうか。失敗を恐れて慎重になるのも当たり前です。

しかし、失敗はあって当たり前なのです。日本では新しい企業の9割が10年以内に廃業、倒産すると言われています。失敗は当たり前のことなのですね。

一生懸命仕事を頑張った人は、そこで学んだ経験をもとに、新しいチャレンジを行うことができます。

成功者と言われる多くの人が、必ず何度も挫折を経験しています。失敗から学べることはとても大きいです。大切なのは、常に前を向き続けることです。

インドの古典音楽は全て即興で行いますが、演奏者には沢山の演奏ルールが設けられています。

常に即興の中から新しい音楽を生み出すことを求められている音楽家は、挑戦が大きいほどミスを犯してしまいます。

ミスは起こるけれど、その後のカバーが大切だと言われています。ミスが起こった時に、どれだけ冷静に、観客の楽しみを邪魔をしないように、会場の空気を壊さないようにカバーするのかで演奏者の力量が試されます。

もともと決められたレールの通りに生きるのであれば、わざわざ人間として生を与えられる意味はないのではないでしょうか。

予定通りにいかない、予想外の展開が起こる、そんな人生だからこそ、オーダーメイドの自分の人生を生きられるのだと思います。

慈悲喜捨で自分を受け入れる

全身大の鏡に映る自分を褒める女性
なかなか失敗を受け入れられない時には、ヨガ・スートラの慈悲喜捨の教えを取り入れてみましょう。

他人の幸せ、不幸、善行、悪行に対して抱く、慈悲喜捨は心の寂静を生む。(『ヨガ・スートラ』1章33節)

:他人の幸せを一緒に喜ぶ友情
:他人の不幸を一緒に悲しむ同情
:他人の善行を喜ぶ
:他人の悪行に対する無関心

頑張った自分を褒める「喜」を忘れずに

この4つの中で、自分を認めてあげられない人には、「喜」がお勧めです。

「喜」は、他者や自分の善行を素直に喜ぶことですが、日本人は特に謙遜の文化が強いため、なかなか褒めてあげることができません。

例えば、一生懸命に子育てと家事を頑張っていても思ったようにできず、何日も掃除機をかけるタイミングが見つからなくて自己嫌悪してしまうこともあるかもしれません。友達の家は子供がいてもいつも綺麗なのに、自分ができていないと、私はダメなのだと思ってしまいますね。

しかし、同じ年齢の子供でも個々でどれだけ手がかかるのかは違いますし、全てが完璧にできないからと言ってネガティブに感じる必要はありません。

それよりも、毎食子供の食事を用意してあげて、不衛生にならないように食器だけはすぐに洗っていれば、頑張った自分を認めてあげるべきです。

自分ができたことに対しては、しっかりと認めてあげて、その上で出来ないことに対して改善する方法を客観的に観察することができれば、苦しみを生み出しにくくなります。

できないことに固執しない「捨」

時には、単怠慢や出来心でしっかりできないときもあります。それに対しては「捨」です。

ストレスで自分をコントロールできずに、子供に強く怒ってしまうなど、良くない行為に対しては改善することも必要ですが、固執しないことも大切です。

感情的になると、いつまでも過去の間違いに意識が向いて、今を生きることができません。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もありますが、何か失敗を犯したとしても、自分自身や、失敗した人の存在そのものまで否定するべきではありません。

仕事をしていれば、同僚に意見が合わない人もいれば、その人のやり方を「間違っている」と感じることもあります。正義感が強い人ほど、自分よりも手を抜いている人がいると、気に障ってしまうかもしれません。

しかし他人の落ち度を探し続ける時間と労力が、結局自分を苦しめています。

また、他人のことを常に厳しくチェックしていることで、自分もミスを犯した時に周りからの目が気になってしまいますね。

人を許すことによって、自分自身も許されていると感じることができます。

間違ったことをし続けるのはいけませんが、過去の失敗に固執し続けるのはもっとよくありません。

たまには気を抜いて自分に優しく生きる

ヨガでは「努力をするな」とは言いません。常によりよくなるための継続的な努力は、ヨガの成功にとって最も大切です。

だからと言って、100%の完璧を求めるのもヨガとは違います。

一生懸命に生きたうえで、努力した結果が予定と違ったとしても、それも素晴らしいと思えることが大切です。

仕事では生産性が大切で、なかなか気を抜けない人もいるでしょう。しかし、ヨガをしているときには完璧でなくても良い、失敗しても良いということが分かっていると、心の中に少し余裕が生まれてくるのではないでしょうか。