月に向かってトナカイのソリで夜空を走るサンタクロース

真実を語る社説~サンタクロースがいるプルシャの世界~

こんにちは!丘紫真璃です。

クリスマスも迫ってきた今回は、世界的に有名なニューヨークの社説を取り上げたいと思います。

1897年、ニューヨークに住む8歳の少女が、ニューヨーク・サン新聞に、手紙を出しました。それが、「サンタクロースっているんでしょうか?」という質問の手紙だったのです。

少女の手紙の答えは、1987年9月21日に、ニューヨーク・サン新聞の社説となって掲載されました。その社説はアメリカでは非常に有名で、毎年クリスマスの時期になると、各新聞に掲載されるそうです。

また、これは日本でも有名で、多くの方が1度は読んだことがある社説だと思います。今回は、名文として世界的に超有名な社説を取り上げていきたいと思います。

8歳の少女の出した手紙

床に腹ばいになって手紙を書く少女
1897年、ニューヨークに住む8歳のバージニア・オハンロンという少女が、ニューヨーク・サン新聞宛てに、次のような手紙を出しました。

「きしゃさま

あたしは、8つです。
あたしの友だちに、「サンタクロースなんていないんだ」っていっている子がいます。
パパにきいてみたら、
「サンしんぶんに、といあわせてごらん。しんぶんしゃで、サンタクロースがいるというなら、そりゃもう、たしかにいるんだろうよ」と、いいました。
ですから、おねがいです。おしえてください。サンタクロースって、ほんとうに、いるんでしょうか?」

これに対しての答えを、当時、ニューヨーク・サン新聞の記者だったフランシス・P・チャーチという人が書きました。その文章が、9月21日のサン新聞の社説に掲載されたのです。

8歳の少女の質問に答えた名社説(全文)

木のテーブルの上の新聞を広げる手

バージニア、おこたえします。サンタクロースなんていないんだという、あなたのお友だちは、まちがっています。

きっと、その子の心には、いまはやりの、なんでもうたがってかかる、うたぐりやこんじょうというものが、しみこんでいるのでしょう。
うたぐりやは、目にみえるものしか信じません。
うたぐりやは、心のせまい人たちです。心がせまいために、よくわからないことが、たくさんあるのです。それなのに、じぶんのわからないことは、みんな、うそだときめているのです。

けれども、人間の心というものは、おとなのばあいでも、子どものばあいでも、もともとたいそうちっぽけなものなんですよ。

わたしたちのすんでいる、このかぎりなくひろい宇宙では、人間のちえは、1ぴきの虫のように、そう、それこそ、ありのように、ちいさいのです。

そのひろく、またふかい世界をおしはかるには、世の中のことすべてをりかいし、すべてをしることのできるような、大きな、ふかいちえがひつようなのです。

そうです、バージニア。サンタクロースがいるのは、けっしてうそではありません。この世の中に、愛や、人へのおもいやりや、まごころがあるのとおなじように、サンタクロースもたしかにいるのです。

あなたにもわかっているでしょう。世界にみちあふれている愛やまごころこそ、あなたのまいにちの生活を、うつくしく、たのしくしているものなのだということを。

もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中は、どんなにくらく、さびしいことでしょう!

あなたのようなかわいらしい子どものいない世界が、かんがえられないのとおなじように、サンタクロースのいない世界なんて、そうぞうもできません。

サンタクロースがいなければ、人生のくるしみをやわらげてくれる、子どもらしい信頼も、詩も、ロマンスも、なくなってしまうでしょうし、わたしたち人間のあじわうよろこびは、ただ目にみえるもの、手でさわるもの、かんじるものだけになってしまうでしょう。

また、子どもじだいに世界にみちあふれている光も、きえてしまうことでしょう。

サンタクロースがいない、ですって!
サンタクロースが信じられないというのは、妖精が信じられないのとおなじです。

ためしに、クリスマス・イブに、パパにたのんでたんていをやとって、ニューヨークじゅうのえんとつをみはってもらったらどうでしょうか? ひょっとすると、サンタクロースを、つかまえることができるかもしれませんよ。

しかし、たとい、えんとつからおりてくるサンタクロースのすがたがみえないとしても、それがなんのしょうこになるのです?

サンタクロースをみた人は、いません。けれども、それは、サンタクロースがいないというしょうめいにはならないのです。
この世界でいちばんたしかなこと、それは、子どもの目にも、おとなの目にも、みえないものなのですから。

バージニア、あなたは、妖精がしばふでおどっているのを、みたことがありますか?もちろん、ないでしょう。だからといって、妖精なんて、ありもしないでたらめだなんてことにはなりません。

この世の中にあるみえないもの、みることができないものが、なにからなにまで、人があたまのなかでつくりだし、そうぞうしたものだなどということは、けっしてないのです。

あかちゃんのがらがらをぶんかいして、どうして音がでるのか、なかのしくみをしらべてみることはできます。

けれども、目にみえない世界をおおいかくしているまくは、どんなに力のつよい人にも、いいえ、世界じゅうの力もちがよってたかっても、ひきさくことはできません。

ただ、信頼と想像力と詩と愛とロマンスだけが、そのカーテンをいっときひきのけて、まくのむこうの、たとえようもなくうつくしく、かがやかしいものを、みせてくれるのです。
そのようにうつくしく、かがやかしいもの、それは、人間のつくったでたらめでしょうか?
いいえ、バージニア。それほどたしかな、それほどかわらないものは、この世には、ほかにないのですよ。

サンタクロースがいない、ですって?
とんでもない!うれしいことに、サンタクロースはちゃんといます。それどころか、いつまでもしなないでしょう。

一千年のちまでも、百万年のちまでも、サンタクロースは、子どもたちの心を、いまとかわらず、よろこばせてくれることでしょう

サットヴァな心に真実が見える

水面に綺麗に映る大自然
この素晴らしい名文の後に、わたしがクドクドと話すまでもないのですが、どうですか、みなさん!

この社説そのものが、ヨガの語っていることと同じだという気はしませんか?

ヨガでは、今ここに見えている世界は、わたし達の心が映している世界なのだと考えます。

映写機がスクリーンに映す映画を観るように、心が映し出したものを、わたし達は見ているのです。

チャーチは、「人間の心というものは、おとなのばあいでも、子どものばあいでも、もともとたいそうちっぽけなものなんですよ」と書いていましたね。

わたし達の心はとてもちっぽけにちぢこまっていて、ゆがんでいて、不完全なんです。

ゆがんだ水面には、ゆがんだ世界しか映らないように、ゆがんだ心が映しだす世界は、ゆがんでいるんです。それは、真実ではありません。

真実を映し出すことができるのは、もっとキレイで、もっとすみきった心だけ……。ヨガでいうサットヴァな心だけです。

サンタクロースを見ることができるのは、生まれたての赤ちゃんの様に澄み切ったサットヴァな心の持ち主だけなのでしょう。

でも、サットヴァとは程遠い心のわたし達にも、サンタクロースに近づける瞬間はあります。

信頼と想像力と詩と愛とロマンスだけが、そのカーテンをいっときひきのけて、まくのむこうの、たとえようもなくうつくしく、かがやかしいものを、みせてくれるのです

美しい詩を読んだり、音楽を聴いたり、誰かの愛や優しさにふれて、心が温かく穏やかになった時。あるいは、ヨガで心がとても穏やかになった時。わたし達の心はサットヴァに近づき、ほんの少しだけ、サンタクロースのいる美しく、輝かしい世界をのぞいてみることができます。

サンタクロースのいる美しい、輝かしい世界。決して変わらない確かなもの。それこそは、ヨガでいうプルシャのことではないでしょうか?

プルシャは永遠に変わらないものです。

この世界にある全てのものは……わたし達の身体も心も、命も、犬も、ネコも、草も、木々も、常に変化し続けます。

けれども、どんなことがあっても決して変わらないもの……それが、プルシャなんだと、パタンジャリ※1は言います。

決して変わらず死なないものがサンタクロースだとしたら、サンタクロースはプルシャそのもの。この世界のたった1つの真実そのものなのです。

ヨギーはプルシャを一目見たくて、ヨガの修行をします。けれども、プルシャを求めているのは、きっとヨギーだけではありません。全世界の人が、プルシャを必要としているのです。

だからこそ、サンタクロースは、クリスマスのたびに世界中の子ども達の家を訪れ、プレゼントを届けてくれるのです。

ニューヨーク・サン新聞に掲載された社説は、ヨガの1番大切な真実を、とてもわかりやすく、優しく、そして的確に語ってくれているように思えます。

もうすぐクリスマス。「サンタクロースって本当にいるの?」とお子さんに聞かれたら、お子さんといっしょに、この名文を読んでみてもいいのではないでしょうか?

  • ※1 パタンジャリ:『ヨーガ・スートラ』の編纂者(編集者)とされる人物。

参考資料

  1. 『サンタクロースっているんでしょうか?(昭和1977年)』中村妙子訳(偕成社)