ギータ―の教え~神は結果を与えない。責任を負うのは自分~

ギーターの教え〜神は結果を与えない。責任を負うのは自分〜

ヨガの教典として知られるバガヴァッド・ギーター(以下ギーター)はバクティ(神への信愛)について書かれた教典としても知られ、とても宗教的だととらえられることもあります。

しかし、本来ヨガとは神頼みでも他力本願でもありません。ヨガとは自分自身で自分を変えるための教えであり、それはギーターの教えでも同じです。

私たちの目の前の世界は、自分で作り上げたもの。それが分かれば、自分で自分の人生を切り開くこともできるようになってきますね。

クリシュナ神の教え「神は世界を作らない」

何か悪いことがあった時に「運が悪かった!」と思いますか?もしくは、「罰が当たった」と思う人もいるかもしれません。もしくは幸運を手に入れたら「神様ありがとうございます!」と思うこともありますね。

しかし、神様は人々に物質的な何かを与えたり、世界を変える存在ではありません。私たち自身が活動する力を与えてくれる存在です。

ギーターでは、クリシュナ神という特定の神様に限定して「信愛しなさい」と説くので、なんとなく強制された感じがする人もいるかもしれません。しかし、神と私たちの関係を明確にすると、ギーターの説く神は私たちを束縛するような存在でないことが分かります。

行為者であることも、行為も、行為の結果も神は生み出さない。物質的な本性によってなされる。(バガヴァッド・ギーター5章14節)

このようにギーターの5章では、行為を行うのもその結果を生み出すもの神様ではないと説いています。

「神様お腹が空きました」と言っても、神は棚からぼた餅を降らせません。万が一ぼた餅が落ちてきたとしても、それを置いたのは自分か家族でしょうね。物質的な世界の未来は、私たちが自分で行った行為によって作り出されます。

つまり、私たちは全て自己責任で行為をし、自身の未来を切り開くしかありません。

神(ブラフマン)の行いとは?

では創造を司る神とは何をする存在なのでしょうか?

ギーターでは、神の持つ創造の力を「神(クリシュナ)のヨガ」と呼びます。

  • 魂(アートマン)と物質(プラクリティ)を合わせて、物質世界で活動する力を与える
  • 人間が行った行為を記憶する(サンスカーラ)
  • 人間が行った行為に対して結果を与える

私たち人間は、魂(アートマン)と物質(プラクリティ)の結合によって生まれます。

アートマンとは純粋な意識体であり、それだけでは行動することも、感じることも、考えることもできません。色形のあるプラクリティであるこの身体に宿ることによって、初めて人間として生まれて生きることができます。この、アートマンとプラクリティを合わせる力が神の1つ目の力です

そして、物質世界のルールであるカルマ(業)の法則を作り出すのも神の力です。

業とはカルマ、行為という意味です。カルマとはとてもシンプルな仕組みです。自業自得という言葉で考えてみましょう。「自分の行いが自分の得となって帰ってくる」というのがカルマの最もシンプルな仕組みです。

結果は自分の行いによって変わります。良い行いは良い結果を生み出し、悪い行いは悪い結果を生み出します。神は、このシンプルな仕組みを作り、それによって世界を維持します。

つまり神の力とは、この世界全体のルールや秩序を整えることであって、物質的に直接手を下すことではありません。

そのため、人間として生まれたクリシュナ神は、神であってもカルマのしくみに従います。人間という物質的な肉体を持って生まれたクリシュナ神は、猟師の放った矢によって急所である足の裏を撃たれて死を遂げます。

神は私たちに世界の真実を教えてくれる存在ですが、未来を直接的に変えてくれるわけではありません。私たちが自分の未来を変えたいのであれば、自身の行いを変える必要があります。

悪い行いも良い行いも自分自身の責任

世界で起こる現象には必ず原因と結果があります。クリシュナ神は、物質世界で起こることに対してはとても冷静であり、論理的に考えます。

偏在する神は誰かの罪、または善行に自分自身を関与させない。内なる知識が無知によって覆われ、生きている人は惑わされる。(バガヴァッド・ギーター5章15節)

例えば最近良いことがないからと、気分転換ためにお洒落して出かけたら、空から鳥のフンが降ってきて直撃したとします。それは、たまたま木や電柱に止まっていた鳥がフンをした結果であって、それ以外の理由はありません。

しかし、気分が滅入っている時にそんなことがあると「やっぱり私は運が悪い」「これは神様から与えられた試練なのだ」と大げさに考えてしまうことありますよね。

また、友人と比べて自分が劣っていると惨めに感じてしまうと、「私は不幸な星の元に生まれたんだ」と考えてしまうこともあります。特に人の心が弱っている時ほど、妄念が生まれて思い込んでしまいますよね。そのような状態をヨガでは無知と呼びます。

しかし、神様は私たちが思っているよりも平等です。

ヨガ理論で唯一の真実とは、内側の光りであるアートマン(真の自己)であり、それ以外の物質的なものは全て無常で一時的なものです。

良い結果が与えられてもおごり高くならない

私たちに与えられた結果は、私たちの行為(カルマ)が要因です。

しかし良い結果が得られたとしても、それに執着してはいけないとクリシュナは注意しています。

高潔な神への儀式の残り物を受け取るものは、あらゆる罪を負うことはない。自らのために調理するものは罪のみを受け取る。(バガヴァッド・ギーター3章13節)

「自分の行動が自分の未来を作る」ということを理解して、そこにばかり意識が向いてしまうと、今度は結果に執着しすぎる危険があります。良い結果が得られれば「自分は素晴らしい」と傲慢になり、悪い結果が得られれば「自分は不幸」と嘆いてしまい、良い結果でも悪い結果でも人は束縛されてしまいます。

そのためギーターでは結果に執着してはいけないと繰り返し説いています。では、私たちは日々の行いをどのように行えばいいのでしょうか?

ギーターでは、私たちの行いを神へ捧げる祈りとして行うことを勧めています。私たちは、今行うべきことに精一杯向き合いますが、その結果に対しては執着すべきではありません。

自身の祈りの結果、時には好ましい結果が与えられ、時には願わなかった結果が与えられることもあります。しかし、どのような結果であっても全ては神から与えられたものだと考え、感謝して受け取ることによって、私たちはあらゆる執着から解き放たれます

考え方を変えるだけで、状況は変わらなくても今を楽しめるようになります。

ヨガで執着しない心を身につける

結果に執着しない心を育てるのに最適なのがヨガの練習です。日常のほとんどの行動は結果を求めて行うものですが、ヨガは行為自体を楽しむものです。

アーサナの練習を行う時は、一生懸命自分自身の身体や呼吸、心に向き合っています。自分自身に向き合っている時には、未来や過去への束縛から解放されることができます。

瞑想も、自身の深い内側との対話です。たとえ雑念が消えても、消えなくても、その瞬間に自分の内側で起こっていることを味わいます。

ヨガの練習により、行為自体を楽しむことを学び、それを少しずつ日常生活にも生かせるようになると、人生をもっと楽しめるようになりますね。

ヨガの神様は誰に対しても平等です。自身の人生を誰かのせいにするのではなく、自分で歩んでいくことで、とても自由になることができます。

ヨガジェネレーション講座情報

ヨガ哲学に興味のある方にオススメ