「忠臣蔵」と「マハーバーラタ」の共通点から哲学しない?

歌舞伎の価値観

歌舞伎好きな私。これは江戸時代の芸能なので、その価値観に激しく違和感を覚える内容のものも多いです。

歌舞伎はそもそも大衆向けの芝居で、言ってみれば政治の風刺や世間の評判(駆け落ちなど御法度もの)などが、デフォルトされて描かれている。その最たるものが「忠臣蔵」。その人気や知名度はいまだに続いているけれど、このきっかけを作ったのがまさに歌舞伎や文楽。元禄時代当時、少し前に起こった仇討ちをテーマに、名前を少し変えて(例えば、大石内蔵助を大星由良助へとか)演劇にしてしまったのだ(タイトルは「仮名手本忠臣蔵」)。

「仮名手本忠臣蔵」を現代に置き換えると

ある県知事が政府のお偉方(役職のある)から受けていた、ちくちくした嫌がらせ(といわれている)から鬱っぽくなり、ある時、総理官邸みたいなところで、そのお偉方に手を出してケガをさせてしまう。これを聞いた首相は一気にキレて、話もよく聞かないうちに、その県知事を処分。県を解散させてしまった。この処分に腹を立てた県知事の部下達47人が、団体でお偉方へ敵討ちをするというストーリー。その意図は、首相に「おまえのやり方間違ってるやろ(47人は兵庫県民)」という抗議だったのだ。

当時は敵討ちが合法だったし、上司の敵を心に秘めて時機を待ち(約2年)、ついに討ち果たしたということが庶民に受け、47人はヒーローになったのだ。その証拠に、仇討ちのあとは、47人は何人かずついくつかの大名家にしばらくお預けになった。これは、47人へ処分が下るのを待っていたのだけど(まあ、殺人だし)、その間は各家で豪勢な接待を受け、最後は斬首など罪人扱いではなく切腹という名誉の死に方を得たのだ。

命の重さはいかに

さて、当時の命の重さはどうだったのでしょうか? 武士という刀を日常的に持っている日立が支配階級にいる時代で、警察組織だって拷問が普通だし。また、切腹だって名誉のために、自ら腹を切るという感覚なわけです(それは戦時中も同じ感性でしたけどね)。

当然、今とはまったく異なる命の対する価値観があります。歌舞伎には、そういう演目がたくさんあって(お家のために自分の子どもを犠牲にするとか…)、だからこそ命の重さをすごく考えさせられるいい材料にはなっています。

『マハーバーラタ』

さて、数年前に歌舞伎で『マハーバーラタ』を上演しました。よくできた脚本で、人の名前は無理やり日本語名になっていたので、ほぼ暴走族の落書きみたいになってましたが、『マハーバーラタ』の大筋は十分に把握でき、面白い演目になっていました。『バガヴァッド・ギーター』なんかは一場だけ、しかも背景なしでアルジュナとクリシュナで核心だけ話して終わり。なんだけど、めっちゃわかりやすいという上出来なシーンとなってました。

ここでも命の重さが演じられてたわけです。報復合戦を止めるにはどうしたらいいのか? という決断を迫られた時、主人公は自分を終わらせることで、永遠と思われた戦争を終わらせます。自分がいなくなれば報復はしない、相手は不安材料もなくなるから再び仕かけてこない、という判断です。

これは、すごい。この先の平和と自分の命を天秤にかけて、平和のために自分の命を終わらせる勇気と決断。一つの命の重さを知っているからこその決断でしょう。さすがに哲学大国です。

一寸の虫にも…

日本では「一寸の虫にも五分の魂」という言葉があります。どんな小さなものにも、相応の考え方や意地があるという意味ですが、そもそも命という重さは同じだということですよね。

「仮名手本忠臣蔵」は一つの命を犠牲にして、一つの命に対する判断(引いては政治全部ではあるのですが)の審議を迫りました。『マハーバーラタ』は一つの命を犠牲にして多くの命を助けました。命の重さに差はありません。

執着とは?

自分の命に対して執着するな、とヨガの教えにはありますが、そのためにもまずは執着することは大事だと思います。それは命の重さを知るということです。それを知るからこそ、新たな次元に行ける。知らないままでは、単なる妄想になってしまいます。

命の重さを知るのは、生きるとはどういうことか、と考えることでもあります。それは人に限らず、すべての命です。ヨガとは、そういうことではないでしょうか。考え、経験(実践)し、また深める。経験するとは「生きる」ということです。自分として命をどう感じていくのか。この週末、少し意識してみませんか?

Text:Yogini編集部