ロンドンの街並みと花とマイフェアレディの切手

「マイ・フェア・レディ」~天国を探し続ける~

こんにちは!丘紫真璃です。今回もまたまた文学の世界からちょっと足をのばして、ミュージカルの世界へ、みなさんをご案内したいと思います。オードリー・ヘップバーン主演のミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」をみなさん、ご存知のことと思います。

1964年のアカデミー賞8部門を受賞したほかにも、ゴールデングローブ賞の数々、ニューヨーク批評家協会賞の数々、英国アカデミー賞、全米監督協会賞、ダヴィット・ディ・ドナテッロ賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞、全米脚本家組合賞、アメリカ映画編集者協会賞といったように、クラクラするほど数多くの賞を受賞している名作映画で、製作費に1700万ドルという莫大な製作費がかけられました。

「マイ・フェア・レディ」を観れば、1700万ドルをかけただけのことはある名作になったことは一目瞭然です。間違いなく、映画史に残り続ける名作の一つといえるでしょう。

その名作映画の世界を、ヨガ的な視点で考察しつつ、みなさんと楽しみたいと思います。

「マイ・フェア・レディ」と「ピグマリオン」

ロンドンの街並みと男女のシルエット

「マイ・フェア・レディ」は、もとはブロードウェイで上演されていたミュージカルの舞台でした。舞台の主演はジュリー・アンドリュースが務めており、7年にわたって上演されるという空前絶後の大ヒットをあげました。その後、世界中で上演され、世界各地で大歓迎を受けています。

「マイ・フェア・レディ」の原作は、バーナード・ショウが1916年に書いた「ピグマリオン」という戯曲です。「ピグマリオン」を開いてみると、設定はほぼミュージカルと同じなのですが、ラストシーンが大きく違います。

「マイ・フェア・レディ」では、主人公のイライザと彼女に音声学を教えたヒギンズ教授が結ばれるような形になっていますが、「ピグマリオン」では、イライザとヒギンズ教授は結ばれないことになっているのです。

なぜ、ラストシーンのみが大きく違ってしまったのか。その辺りはのちほどくわしく考えていきたいと思います。

薄汚い下町の花売り娘の劇的成長

時は、1912年3月の夜。ロンドンのコヴェンドガーデンの劇場前で、みずぼらしい身なりの若い娘が花を売っています。ボロボロの服の上、ふるまいは荒れていて、下町訛りの下品な言葉遣いのため、本当に粗野な女に見えます。

その粗野な娘の名前は、イライザ・ドゥーリトル。このイライザの下品な下町訛りの言葉遣いをメモしている一人の男がいました。これが、音声学の大権威であるヒギンズ教授だというわけでした。

ヒギンズ教授は、そこで出会った友人のピッカリング大佐に、どんなに下品な花売り娘でも自分の手にかかったら半年で一人前のレディになれると言い切ります。その言葉に驚いたイライザは翌日、ヒギンズ教授の家に乗り込み、自分に正確な英語を教えてくれと頼みます。

これはやりがいがありそうな仕事だと思ったヒギンズ教授は、イライザの指導を引き受けることに決めます。そして、自分が引き受けるからには、このドブネズミのような下品な娘を最高のレディにしてやろうじゃないか…と宣言するのです。

そんなわけで、イライザはヒギンズ教授の家に住み込み、正しい英語のしゃべり方の大特訓を受けることになります。ヒギンズ教授が、昼も夜もなくビシバシとイライザを鍛えまくる様子は映画でお楽しみいただくとして、とにかく、ヒギンズ教授の厳しすぎる特訓の末、イライザは見事、正確で上品な英語を自分の物とするのです。

納得のいくラストを考える

ところが、美しいドレスを着飾り、誰もに褒められる素晴らしいレディに成長したというのに、イライザの気持ちは晴れません。

自分は本当に美しいドレスを着飾るレディになりたかったんだろうか…。

思い迷った彼女はヒギンズ教授の家を飛び出します。そして、いろいろあった末、最後にはヒギンズ教授が、自分にとってイライザは大切な存在だったと気がついたため、彼女は教授のもとに帰っていく…というのが映画のラストなのですが、このラストに、原作者のバーナード・ショウは大反対だったというのです。

イライザがヒギンズ教授と結ばれるなんて、絶対おかしいと彼は主張していたんですね。その理由について、バーナード・ショウは、詳細に説明しています。

イライザにとって、ヒギンズ教授は絶対的な存在です。ヒギンズ教授は、イライザにああしろ、こうしろと細かく指図し、命令し、自分の好みのレディに仕立て上げました。しかし、レディとなったイライザは、ヒギンズ教授の理想のレディであって、自分がなりたかった本当の自分ではなかったわけです。

ヒギンズ教授のもとにいる限り、イライザは、彼の命令にどうしたって従ってしまって、そこから抜け出すことはできません。

イライザが自分自身を見つけるためには、ヒギンズ教授のもとから卒業しなければならないのだ、と、バーナード・ショウは主張します。教授のもとから離れてはじめて、本当になりたい自分というものを自分で探すことができるのだと。

だから、バーナード・ショウの原作「ピグマリオン」という脚本では、イライザとヒギンズ教授は結ばれません。イライザは、あなたがいなくたって一人で立派にやっていけると堂々と教授に宣言をして、教授のもとを出ていくのです。

教授が取り残された寂しい場面で、「ピグマリオン」は終わっています。

自分の天国を探し続ける

崖の先に立つ女性

バーナード・ショウが、イライザに自分探しをさせたかったということをふまえて、映画をもう一度考え直してみると、新たなイライザが見えてきます

映画の冒頭から、イライザは一人ぼっちです。父親はイライザを放りっぱなしにしており、寄ってくるのは酒代をたかる時だけという始末。一人ぼっちで花を売っているイライザは、頼れる家族は一人もなく、孤独です。いつも疲れ切っていて、心はまるで満たされていません。

そんな状況を何とか変えたいと、イライザはヒギンズ教授のもとに飛びこんでいき、そこで、猛特訓をして一人前のレディに大変身をしてのけます。ところが、彼女の心は満たされませんでした。

彼女は最高級のレディになっても孤独なまま。ヒギンズ教授は彼女のことを実験の対象として見ているにすぎませんでした。教授にとって、イライザは友達ですらなかったのです。

気が遠くなるような特訓を重ねてレディになっても孤独しか得られなかったイライザは、自分が本当に生きるべき場所を探して、教授の家を飛び出します。彼女はいつも、自分の生きるべき場所を探して、行動をし続けているのです。

そんな彼女の自分探しの人生が、ヨギーと一緒のように感じるのは、私だけでしょうか。

ヨギーは、今の満たされない自分をどこか変えたくて、ヨガの修行をするわけですよね。本当に自分が求めている答えがあるのかどうか、それは全く保証はないけれども、それでもどうにかして自分なりの答えを見つけたくて、ヨガの修行に励むわけです。

イライザと全く同じです。彼女もまた、今の満たされない自分をどこか変えたくて、ヒギンズ教授のもとに飛びこんでみたり、またそこから飛び出したりして、自分なりの答えを探し続けているのです。

♪私の望みは 夜露をしのぐ小さな部屋
大きな椅子が一つ それでごきげん
チョコレートを食べ 石炭を山ほどくべる
足の先まで暖かい それが私の天国♪ ー映画『マイ・フェア・レディ』より

そう歌っていたイライザですが、彼女の天国はいったいどこにあるのでしょうか。ヒギンズ教授のもとに帰る道と、一人立ちをする道。どちらが、イライザの天国なのでしょうか。

いや、それだけではありませんよね。現代の私達が考えてみたら、もっといろいろな選択がありそうです。イライザは、短期間で一人前のレディになれるほど学ぶ力があるのですから、花屋さんなどでバイトをして学校に通い、友達を大勢作ってもいいですし、美しさを活かして、女優やモデルになるというのもアリでしょう。

または、イライザ自身で音声学を勉強しなおし、ヒギンズ教授と対等な学識を身につけて、教授のよきパートナーとして多くの女性に正しい言葉を教える仕事についてもいいかもしれません。

そんな風に「マイ・フェア・レディ」のいろいろなラストを考えてみると、新たな発見がありそうですね。

もちろん、そんなことは考えずとも、この映画は、歌のすばらしさ、オードリー・ヘップバーンの変身ぶりのあでやかさに酔いしれるだけで十分楽しめます。いろいろな楽しみ方で、「マイ・フェア・レディ」を鑑賞してみて下さいね!