太宰治の「お伽草紙」~ヨギーじゃない自分を笑い飛ばす~

太宰治の「お伽草紙」~ヨギーじゃない自分を笑い飛ばす~

こんにちは、丘紫真璃です。今回は皆さんもよく知っている日本の小説家を取り上げてみようと思い、本棚の前をウロウロとうろつきまして、太宰治の「お伽草紙」を選んでみました。太宰治の「お伽草紙」と聞いてピンときた方、どれくらいいらっしゃるでしょうか。

太宰治といえば、「人間失格」とか、「斜陽」とか。あるいは、教科書に必ずのっている「走れメロス」辺りを思い浮かべる方がほとんどでしょうか。確かに、そういう作品が有名ですけれども、それだけが太宰治ではないと、私はそう思うのです。

あまり知られていないかもしれませんが、太宰治の作品にはユーモラスで思わず笑いが止まらない作品もとてもたくさんあります。そして、「お伽草紙」もそういう作品の一つなのですが、この作品をヨガとからめつつ、ご紹介してみたいと思います。

戦火の中で書かれた「お伽草紙」

「お伽草紙」は、1945年10月に出版された太宰治の短編小説集です。「瘤取り」、「浦島さん」、「カチカチ山」、「舌切り雀」といった昔話を、太宰治風に料理しなおした短編小説の傑作集といったらいいでしょうか。

ところで、1945年10月といったら、第二次世界大戦直後。太宰治は、この作品を戦時中に書きました。「お伽草紙」の前書きにも、家族と共に防空壕の中にしゃがみ、5歳の娘をなだめるために絵本を読んでやりながら、作品の構想を練っている様子が描かれています。

桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。
この父は服装もまずしく、容貌も愚なるに似ているが、しかし、元来ただものでないのである。物語を創作するというまことに奇異なる術を体得している男なのだ。

ムカシ ムカシノオ話ヨ

などと、間の抜けたような妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、また、おのずから別個の物語が醞醸せられているのである。

ー「お伽草紙 前書き」より

このようにして、1945年の3月6日ごろから原稿を書きはじめ、空襲で被災しつつも、戦火の中で原稿を完成。敗戦の2か月後に、筑摩書房より出版されました。

人間味あふれる、太宰風「お伽草紙」

人間味あふれる、太宰風「お伽草紙」
人間味あふれる太宰風「お伽草紙」

太宰治の「お伽草紙」は「瘤取りじいさん」や「浦島太郎」、「カチカチ山」、「舌切雀」を太宰風に味付けしなおした短編なわけですが、物語の流れは従来のものと全く同じです。

けれども、登場人物のキャラクターは全く違います。昔話の登場人物といえば、ギリギリに単純化されていますけれども、太宰治の瘤取りじいさんや、浦島太郎は、実に人間くさい人物に生まれ変わっているのです。

例えば、瘤取りじいさん。右のほおにじゃまっけなコブを持っているお酒飲みの明るいおじいさんなのですが、家では、いつも浮かない顔をしているのです。原因はどうも、妻のおばあさんにあるようです。

「もう、春だねえ。桜が咲いた」とお爺さんがはしゃいでも、
「そうですか」と興の無いような返辞をして、
「ちょっと、どいて下さい。ここを、お掃除しますから」と言う。お爺さんは浮かぬ顔になる。

ー「お伽草紙 瘤取り」より

おまけに、このお爺さんには息子がいるのですが、この息子もクセモノです。

もうすでに四十ちかくになっているが、これがまた世に珍しいくらいの品行方正、酒も飲まず煙草も吸わず、どころか、笑わず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず髭を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑われるくらい。

ー「お伽草紙 瘤取り」より

そんなわけで、家では浮かない顔で暮らすお酒飲みのおじいさんは、右の頬のコブを大事にしていて、自分のかわいい孫のようにさえ思っているくらいです。

山に芝刈りに行く時、おじいさんはこっそりお酒の瓶を持っていき、山の上で飲むのですが、そんな時、コブは恰好の話し相手になります。おじいさんは、コブに向かって、おばあさんや、阿波聖人のことをグチりつつ、お酒をチビチビ飲むのです。

さて、そんなおじいさんが芝刈りに行って、いつものようにコブを相手に話しながら、チビチビとお酒を飲んでいる時のことです。いつの間にか眠ってしまったおじいさんは、目を覚ました時、目の前でたくさんの鬼がお酒を飲みながら踊っているのを目撃しました。

太宰風瘤取りじいさんのストーリー
太宰風瘤取りじいさん

踊りが好きなおじいさんは、ノコノコと鬼の真ん中に出ていき、ご自慢の阿波踊りを披露します。

鬼たちは、おじいさんの阿波踊りにとても喜び、また遊びに来てもらいたいと思ったので、おじいさんの大事なものをあずかることにしました。コブです。

おじいさんの頬にぶら下がっているコブが、あまりにもテカテカと光っているので、とても立派なもののように思って、コブをおじいさんの頬からむしりとってしまったのです。このコブをほしけりゃ、また来いよ、というわけなんですね。

こうして、コブがなくなってしまったおじいさんの冒険談を聞いて、ぜひ、自分も鬼にコブを取ってもらいたいと熱望した人がいました。近所に住む別のおじいさんです。この人は、お金持ちで、まわりから先生と呼ばれるようなエライ人物なのですが、ほっぺたのコブの事を本気で悩んでいたのです。

とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髭の中に埋没させて見えなくしてしまおうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髭の四海波の間から初日出のようにあざやかにあらわれ、かえって天下の奇観を呈するようになったのである。

ー「お伽草紙 瘤取り」より

このようにコブに悩んでいたほおひげのおじいさんは、鬼にぜひともコブを取ってもらいましょうと、夜、勇んで、鬼のいる山に登ります。ところが、力みすぎてかえって踊りがヘンテコになってしまい、鬼たちは興ざめしてしまいます。

あまりのヘンテコな踊りに閉口した鬼たちは、もう二度とそばによってこられちゃたまらんと逃げ出しましたが、ほおひげのおじいさんは、必死で追いすがってコブを取ってくれるように頼みます。

すると、鬼たちは、ほおひげのおじいさんがコブを欲しがっていると勘違いをして、ほおひげのおじいさんのほっぺたに、お酒飲みのおじいさんから取ったコブをペタリとくっつけてしまったのです。ほおひげのおじいさんは、ブランブランとコブを二つもくっつけて、家に帰っていくのでした。

……と、おわかりでしょうか。ストーリーは、昔話の「瘤取り」そのまんまですよね。けれども、こぶとりじいさんや、その妻のおばあさんと息子、ほおひげのおじいさんなどのキャラクターは、全く新しい太宰治風に仕立て上げられているのです。

登場人物はヨギーでない人ばかり

このような具合に、ストーリーは全く同じながら、キャラクターは全然違うといった感じで、太宰治の短編集は進みます。

例えば、浦島太郎は、自分にうっとりしている気取り屋の長男となっていますし、カチカチ山のウサギとタヌキも、太宰風に染め上げられてしまいます。

カチカチ山の物語に於ける兎は少女、そうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋している醜男。これはもう疑いを容れぬ厳然たる事実のように私には思われる。

ー「お伽草紙 カチカチ山」

しかも、このウサギはタヌキの背中を焼いたり、やけどの背中にトウガラシをすりこんだり、泥船にタヌキを乗せて沈めたり平気でしてしまうような残酷な美少女で、その残酷ぶりを、これでもか、これでもかというくらいに、太宰は書きまくります。

そしてまた、タヌキの食い意地ばかりはったいやらしさも驚くくらい鮮やかにユーモラスに描き出していくのです。

舌切り雀の主人公にいたっては、日本一ダメな男だと太宰に言い切られてしまうような病弱な男として登場します。こうして並べて見てみると、ビックリするくらい、ヨガの思想からかけ離れた人ばかりですよね。

コブに家族のグチをこぼしつつ、一人でチビチビお酒を飲むおじいさんといい、気取り屋の浦島さんといい、残酷な美少女や食い意地ばかりはったいやらしいタヌキといい、誰も彼も、ヨギーとは真逆な人物といっていいでしょう。

そんなダメで、残酷で、弱気で、全然ヨギーじゃないような人物ばっかり出てくる話を、どうして、私はわざわざ、ヨガコラムに取り上げたりしたのでしょう。

素直に言ってしまえば、「お伽草紙」があまりに面白いので、みなさんにご紹介したかったということがあるのですが、それだけではなく、ヨギーとは真逆な人物ばっかりが出てくるということこそ、この話のヨガ的なキーポイントであると思うのです。

ダメをユーモアで包み込む

もちろん、どの人物もヨギーではありません。でも、どこか覚えがあるような人物ばかりなんですよね。こういう人っているいるって、ぽーんと手を打ちたくなるような。

しかも、それが太宰の流れるような、ユーモアたっぷりの口調に乗せられて出てくるものですから、ついついつりこまれてしまい、そして、その人物達の言うことやすることに、クスクス笑ってしまうんです。

太宰は、ダメな人物達を真向から否定しません。ダメな人物達のダメで弱い所を、ユーモアで絶妙に味付けをして、私達に出して見せます。

私達は、大抵、ダメな人ばかりです。考えてみれば、パタンジャリの理想とするような立派な人物は、現実にほとんどいないといってもいいくらいでしょう。もちろん、尊敬すべき、立派な人はたくさんいます。

けれども、大抵は、どこか弱かったり、ダメだったり、残酷だったり、いやらしいことばっかり考えてしまったりするものではないでしょうか。自分もふくめて、人間ってそういうものだからこそ、それを真向から否定するのは、ちがうと思うのです。

そもそも、ヨガというものは、人間の悪い所を真向から否定するものではないと、私は思います。もちろん、「ヨガ・スートラ」を開いたら、正直に生きよとか、暴力をするなとか、いつも心を純潔にキレイにクリアにしておけとか、そういったことが書いてあるわけですけれども、でも、そうしなければダメだと書いているのではないと思うのです。

パタンジャリが求めることは、ただ一つです。それは、心を穏やかにするということ。風のない日の澄んだ湖のように波一つない平穏な心にすること

そういう平穏な心になるためのアドバイスとして、正直に生きた方がいいよとか、暴力はしないようにした方がいいよとか、あれやこれや、膨大にいろいろなことを書いてあるわけですけれども、それを何もかもせよと、そんなことを書いてあるわけではないのです。

自分ができそうなことだけすればいいんです。要するに、心が穏やかになりさえすれば、どんな方法だっていいんです。

ダメをユーモアで包み込む
パタンジャリからの教え

心を穏やかにすることがヨガなのだとしたら、ダメな自分を笑い飛ばすことは、とてもヨガ的なことだと言えるのではないでしょうか。自分ってダメダメダメと頭から自分で自分を否定しまう時、心はものすごく波立ちます。

けれども、ダメでもいっか~と思った時、どこか力んでいた力もフーッと抜けて、何だか妙に穏やかな気持ちになれるのです。

「お伽草紙」は、ダメでもいっか~と思わせてくれるきっかけになると思うんです。ダメでもいいよね。ダメだからこそ人間って面白いんだよねって笑えること。自分のダメな部分までもユーモアにくるみこんで笑ってしまうこと。

それは、心を少し暖かくなった春の日の湖のようにしてくれるものではないでしょうか。

「お伽草紙」だけではありません。太宰の作品に出てくる人物達は、ダメだったり、弱かったりする人物がいくらでも登場してきます。

芸術家は弱者の味方なんだと、太宰はどこかで書いていましたけれども、その通り、ダメな人物達を滑稽なユーモラスな目線で描かれた作品がとても多くあるのです。

太宰の有名どころのシリアスな作品もいいですが、「ろまん燈篭」や、「新ハムレット」といった滑稽小説も、みなさん、ぜひ読んでみてくださいね。そして、ここで私がクダクダと書きつらねたことなど、キレイさっぱり忘れて、思いきり笑ってみてください!


参考資料

  1. 『お伽草子(昭和四十七年)』太宰治(新潮文庫)