禅語に見るヨガの心  VOL.10『一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)』

禅語に見るヨガの心:VOL.10「一切唯心造」(いっさいゆいしんぞう)

「一切唯心造」(いっさいゆいしんぞう)

「一切唯心造」とは、「すべての現象や存在は自分の心が造り出したもの。心のほかに何物も存在しない」という意味です。もともとは、5世紀頃に漢訳されたとされる「華厳経」の中にある言葉です。

もしそれが本当で、実はすべてのものが「存在しない」のなら、わたしたち、そしてわたしたちを取りまくものは何なのでしょうか?

世の中のすべてのものは常に変化する

私たちが現実に直面していると思っているもの、例えば目に写る光景や、いつもの家族や友達と交わす言葉も、今日のランチも、駅から家までの道ばたに咲いていた花も、すべて、存在しないとしたら?

そう考えると、ある時は、現実感をなくして戸惑ってしまうかもしれません。でもまたある時、大きな悩みに直面している時には、その悩みもまた、心が作り出した幻にすぎないと気づかせてくれるかもしれません。

世の中のすべてのものは常に変化し続けていて、いつまでも変わらないものなど何もないと言えます。つまり実態がない、幻のようなものかもしれません。

ヨガ哲学での「マーヤ」

夕暮れの夕陽と空
何もないところにすべてが在る

「一切唯心造」という言葉に出会ったとき、ちょうど時を同じくして、ヨガの師からこんなヨガ哲学の話を聞きました。

形のあるすべてのものは変化し続けて、実態がないといえます。このことをヨガではマーヤといい、仏教では空といいます。「空」または「マーヤ」の概念がわかれば、仏教がわかり、ヨガ哲学の理解が深まります。

これは「一切唯心造」という言葉と不思議にリンクして、とても印象深かったのを覚えています。

ヨガと禅

「何もない」という奥深さ。どこまでも闇が続くような感覚。「一切唯心造」という言葉はあまりにも深遠すぎて、これから何十年、一生かけてもどこまで理解できるかわからないほどの言葉です。ただ、本質に迫るまでの理解は難しくても、日常に生かせる知恵として「一切唯心造」を心に留めておくことは、これからの人生に少なからず生きるヒントを与えてくれるかもしれません。

心にちょっとした悩みを持っていたとしても、永遠のものではないと思えるでしょう。お金、地位、名誉など、大切にしているものを大切にするあまり、執着してしがみつくこともなくなるでしょう。悩みや迷いが少ない日々を過ごしているうちに、だんだんヨガの哲学、仏教の心がしみついてくるかもしれません。そうなれるよう、日々心地良く暮らしながら、ヨガや禅を学んでいけたらいいですね。