『人間喜劇』が歌いあげる世界中の人々は一人の人間のような物だ

『人間喜劇』が歌いあげる世界中の人々は一人の人間のような物だ

こんにちは!丘紫真璃です。今回は、ウィリアム・サロイヤンの傑作『人間喜劇』をご紹介したいと思います。

アメリカの小説家であり劇作家である彼の作品を読んだことがないという方は多いかもしれません。そんなサロイヤンの『人間喜劇』を今回、ここでご紹介したいと思ったのは、ヨガの世界と深く関わっているからというだけではありません。

『人間喜劇』の作品そのものが、とても大きな善いものに包まれていて、それを読むと、暗い世の中で疲れきっている心が少し明るくなるような…そんな心持ちになるからなのです。

そんなわけで、早速、サロイヤンの『人間喜劇』をのぞいてみることにしましょう。

サロイヤンの人生経験がつめこまれた『人間喜劇』

ウィリアム・サロイヤンはカリフォルニア州のフレズノ市に生まれます
ウィリアム・サロイヤンはカリフォルニア州のフレズノ市に生まれます

ウィリアム・サロイヤンは、1908年、アルメニア人を両親として、カリフォルニア州のフレズノ市に生まれます。貧困のため、7歳まで孤児院で育てられたサロイヤンは、8歳の時から、新聞売子、電報配達夫、図書館員、ブドウ園の日雇い、郵便局員と次々に職を転々として過ごします。

26歳の時、『揺れるブランコにのる若く勇ましい男』という短編を発表。その後、『君が人生の時』という戯曲や、『我が名はアラム』という小説など次々に世に送り出します。

1943年に『人間喜劇』を発表。貧困の中で育ち、次から次に職を転々としたサロイヤンだからこそ描けた物語であり、誰もマネできない世界観が色濃く立ち現れている傑作です。

死の知らせを届ける電報配達夫・ホーマー

主人公のホーマー・マコーレイは、アメリカのカリフォルニア州イサカ市に住む14歳の少年です。父は2年前に亡くなっており、兄のマーカスは戦争中のため兵隊に行っています。

ホーマーは、母と姉のベス、まだ5歳の弟ユリシーズを支えるため、14歳ながら電報配達員として働き始めたところです。本当は、16歳からしか電報配達員の仕事はできないのですが、ホーマーは頭がよく、体力もあるので特別に雇ってもらえることになったのです。

ところが、ホーマーが運ばなくてはならないのは、人々に悲しみを伝える電報でした。戦争中のため、陸軍省からの戦死の通達電報を届けなくてはいけなかったのです。

時には心優しいメキシコ人女性のもとへ、時には幸せな誕生日パーティーを開く家族のもとへ、ホーマーは、戦死通達の電報を届けなくてはなりません。彼がその電報を届けると、悲しみの渦が巻き起こるため、彼はこの仕事がとてもつらく感じます。

ホーマーが悪いんじゃない。彼の仕事は電報を配達することだ。しかし、だとしても、このとんでもないことに彼も関係しているような気がした。気まずく、そしてこんなことが起きたのは彼ひとりに責任があるように感じた。と、同時に、はっきり、こういうようにいってやれたら、とも思った。

『ぼくはただの電報配達です。サンドヴァルの奥さん。こんな電報を持ってきて、ほんとにすみません。でも、それはただ、ぼくのしなくちゃいけない仕事ですから

(『人間喜劇 第5章』)

幸せそうな家族が、自分の持ってきた電報で、一気に不幸のどん底に突き落とされる様子を次々に見て、彼は気分が悪くなったり、悪夢にうなされたりします。こんな仕事はもう嫌だ。こんな電報は届けたくない。僕にはできない。もうやめちゃう!何度もそう思いながらも、それでもやはり、ホーマーは電報配達の仕事をやめることができません。なぜなら、家族の生活が彼の仕事にかかっているからなのです。

「死」の知らせを様々な人に届け続けているうちに、ホーマーは心底みじめに疲れ切り、仕事が終わった真夜中、真っ暗な道を自転車で走らせながら、不意に泣き出してしまいます。

その時のことを、翌朝、ホーマーは母にこう話します。

泣き出したもんだから、うちにまっすぐ帰れなくなってね。(略)

あちこちの道を乗りまわしながら、なにもかもながめたんだ。建物を一つ一つ、生れてから今まで知っているあらゆる処を、何処も人々がいっぱい住んでいるんだな。そして、その時、ほんとうにイサカの町を知ったんだ。

それからイサカに住んでいる人々をほんとうに知ったんだよ。ぼくはその人たちみんなが気の毒になって、この人々に何事も起こりませんようにとお祈りまでしたよ

(『人間喜劇 第26章』)

そんな彼に、ホーマーの母や、同じ電報局で働く老電信士のグローガンが様々な助言を与え、悩みに答え、励まします。そして、物語は兵隊に行っている兄のマーカスが、戦友たちと乗っている汽車の場面に移ります。

生きて帰りたい

生きて帰りたい
故郷のイサカのことや、家族のことを話しています

マーカスは、その汽車の中で、親友となったトビイに、故郷のイサカのことや、家族のことを話しています。どうやら、マーカスはこれまでにも繰り返し、繰り返し、トビイに故郷のイサカや、家族のエピソードをくわしく語っていたようなのです。

トビイは孤児で、ずっと孤児院育ちでした。そのせいもあるのでしょうか。マーカスの家族のことや、イサカについて、とてもくわしく聞きたがります。そして、マーカスの妹のベスの写真を見せてもらったトビイは、こう言います。

ベスはほんとにきれいだな。相手の女の子に会わないで、恋をする奴がいるかどうか知らないが、ぼくはもうベスに恋をしたような気がする

(『人間喜劇 第32章』)

そんなトビイにマーカスは、ベスの写真をやり、こう言います。

ベスと結婚して、イサカで暮らすんだな。いい町だよ。イサカでなら幸福に暮らせるよ。(略)

ぼくたちはイサカに帰って、きみは子供を生み、育てる。ぼくも子供を生み、育てる。そして、時々お互の家をたずねて、音楽をたのしんだり、歌をうたったりして…そして人生を送ろうよ

(『人間喜劇 第32章』)

戦争から無事に生きて帰ってきたら、二人でイサカに行き、一緒に住もう。お母さんや、ベスや、ホーマーや、ユリシーズ。それに、マーカスの恋人のメアリイ。みんなと一緒にイサカで暮らそう…と、マーカスとトビイは、そう約束し合います。

マーカスの戦死電報


場面は再び、ホーマーに変わります。昼は高等学校に、夜は「死」を知らせる電報配達員として働き、クタクタに疲れきっていたホーマーは、ある日、兄のマーカスから手紙をもらいます。そこには、こんなことが書いてあるのです。

もちろん、おまえと別れていて淋しい。いつもおまえのことを考えている。(略)

国のためにつくしていることを、ぼくは誇りにしている…。ぼくのいう国とは、イサカであり、ぼくたちのうちであり、そしてマコーレイ家の一人一人のことだ。ぼくは、相手が人間であるならば、決して敵とは認めない。

何故ならば、人間ならば、ぼくの敵ではありえないからだ。相手が誰であれ、どんな皮膚の色をしていようと、どんな間違ったことを信じていても、ぼくの友達だ。敵ではない。

というのは、ぼくとちっとも違ったところがないからだ。ぼくは相手の人と戦っているのではない。相手の内にある…それはぼく自身の内にもあり、まずそれから破壊していかなければいけないものだが…そのことと戦っている

(『人間喜劇 第33章』)


さらに、手紙は続きます。何よりも僕は生きて帰りたい。生きてイサカに帰り、お前や母さんや妹や弟と一緒に長生きがしたい。でも、僕らはもうじき、戦場に向かうだろう。そして、その戦場で死ぬかもしれない…そんなことをマーカスは、書き綴ります。

これが当分の間の最後の手紙になるだろう。まるっきり最後の手紙にならないよう、ぼくはのぞんでいる。しかし、もしそうなったら、ぼくたちは離れないでいよう。ぼくがこの世からいってしまった、と信じないでくれ

(『人間喜劇 第33章』)

兄からの手紙を読んだホーマーは泣きながら、もし、兄さんがこの馬鹿らしい戦争で死んだりしたら、この世界にツバをはいてやる。永遠に世界を憎んでやる。今までのいちばん悪いやつになってやるから!とさけびます。

けれども、その半年後、ホーマーの電報局に、ほかならぬマーカスの戦死を告げる電報が届くのです。

マーカスは全てのもののうちに

兄の戦死電報を見たホーマーの目に涙はありませんでした。ホーマーは、突然腹が立ち、馬鹿にされたような気持ちがして、電報局長のスパングラーさんにこう言います。

今、ぼくは、しゃくにさわっている。だけど、誰に腹を立てていいんだか、それが分らないんです。敵って、誰です。スパングラーさんは分かりますか?

(『人間喜劇 第38章』)


それに対して、スパングラーは長い間考えた後、こう答えます。

敵は人々じゃないと思う。もしそうなら、ぼく自身がぼくの敵になる。世界中の人々は一人の人間のようなものだ。お互いを憎めば、自分自身を憎むことになる。

(『人間喜劇 第38章』)

さらにスパングラーはこう語ります。


きみをなぐさめようとはしないよ。できないことを知っているもの。だけど、善い人はけっして死なないことを忘れないようにするんだな。きみは、これから、兄さんに何度も何度も会うだろう。

きみは、きみの兄さんを町の通りで見かける。家の中で、そして、町のあらゆるところで、兄さんを見るよ。ぶどう園で、果樹園で、河や、雲のうちに、この世界をわれわれが住む世界にしている、すべての物のうちに、きみの兄さんを見るだろう。

ここにある、愛からでたすべての物、また愛のために存在するすべての物のうちに、きみの兄さんを感ずる。あらゆる豊かにみのる物のうちに、あらゆる生え育つ物のうちに。

人間の姿、像は去っていく…あるいは持ち去られるのかもしれない…だが、善い人のもっとも立派なところは残る。永遠に残る

(『人間喜劇 第38章』)

善い人のもっとも立派なところ…永遠に残るもの…それは、やはり、ヨガでいうプルシャのことでしょう。プルシャは全ての人々の中にあります。全ての人は同じなのです。

どんな肌の色の人も、どんな国の人も、人殺しだって、強盗だって、わたし自身であり、あなたでもあるのです。そしてまた、プルシャは生きとし生けるすべてのもののうちに存在します。世界中のありとあらゆる全てのものは、わたしであり、あなたであり、そして、ホーマーであり、またマーカスでもあるのです。

ホーマーは、兄の戦死電報をポケットに入れ、家に向かいます。その頃、一人の兵隊が汽車をおりて、びっこをひきながら、イサカの町のマコーレイ家までやってきました。それは、マーカスの親友のトビイでした。

トビイが、マコーレイ家のげんかんポーチに腰を下ろしている所に、ホーマーが帰ってきます。ポケットに、マーカスの戦死の通知を知らせる電報を入れているホーマーです。

ホーマーは、それが兄の親友であるトビイだと聞くと、そっとこう聞きます。

「今日の午後、電報がきました。ポケットに持ってます。どうしましょう?」

「破ってしまいな、ホーマー」と、兵隊はいった。

「捨てちゃうんだ。そんなものはほんとじゃない、破っちゃえ」

(『人間喜劇 第39章』)

そう。マーカスは死んでなんかいないのです。あらゆる豊かにみのる物のうちに、あらゆる生え育つもののうちに、河や雲やぶどう園の中に、マーカスは生きているのです。そしてまた、イサカに帰ってきたトビイ、故郷のない孤児のトビイこそは、マーカス自身であると言えるでしょう。

何故なら、世界じゅうのどんな人々も、みんな一人の人間であるといえるのですから。世界じゅうのどんな人だって、わたしであり、あなたであり、マーカスであるのですから。トビイは、マーカスであり、マーカスは、トビイなのです。


ホーマーは、トビイを見て、そのことをごく自然に受け入れます。そしてまた、マコーレイ家のすべての人が、トビイを、ごく自然に受け入れます。彼らがまるで、トビイが、マーカス自身であるかのように歓迎し、微笑みかけるところで、物語は暖かく、幕を閉じます。

それと共に本のページを閉じたわたし達の胸に残るのは、『人間喜劇』の全編を通じて、歌いあげられている「世界中の人々は一人の人間のようなものだ」というこのメッセージです。

しかも、それらが長編の詩のような世界に包まれているため、押しつけがましい感じも説教くさい感じもなく、自然に心に染み入っていきます。

まさしく、サロイヤンマジック。みなさんも、ぜひ、『人間喜劇』を読んで、サロイヤンマジックにかかってみて下さい。

参考資料

  1. 『人間喜劇(1977年)』ウィリアム・サロイヤン著 小川信夫訳(晶文社)