『廻廊にて』で見る永遠のサマディー ~真の自己を探す遍歴の旅~

『廻廊にて』で見る永遠のサマディー ~真の自己を探す遍歴の旅~

こんにちは。丘紫真璃です。今回は、辻邦生の『廻廊にて』を取り上げたいと思います。

この作品を選んだのには、超個人的な理由があります。この『廻廊にて』がなかったら、私の両親は結婚していなかったかもしれなかったのです! 

というのは、私の母は女学生だったある夏の日、『廻廊にて』を読んで感激したあまり、当時、学習院大学でフランス文学の教授をしていた辻邦生先生に会いに行き、それからずっと、辻先生と親しく交流をしていたようなのです。母は、辻先生をとても尊敬し、付き合っていた人と結婚していいものかどうか相談までしました。

「私は本当にあの人と結婚していいでしょうか?」

そう尋ねた若き母に、辻先生は

「その彼はどんな方ですか?え?あなたに私の本を勧めたんですって?それなら大丈夫。その彼と結婚してよいでしょう」と大きくうなずいて言ったということです。

そんなわけで、私の両親は結婚し、私は生まれました。もし、父が『廻廊にて』を母にすすめていなかったら、私は生まれていなかったかもしれません(笑)。

そんな個人的な理由もあって『廻廊にて』をここで取り上げようと思ったのですが、もちろん『廻廊にて』の世界が、ヨガの世界そのもののように深い関わりを持っているからでもあるんです。

前置きが長くなりましたが、辻邦生先生の『廻廊にて』を開いてみましょう!

古き西欧の雰囲気漂う辻邦生の『廻廊にて』

冒頭で、私の両親の仲人役をしたみたいなことを書いてしまいましたが、辻邦生先生は、芸術選奨新人賞、毎日芸術賞、谷崎潤一郎賞など数々の賞を受賞していらっしゃる、なかなか立派な小説家の先生です。学習院大学でフランス文学の教授をなさっていて、現天皇陛下にも授業をしていらっしゃいます。

『廻廊にて』は、辻邦生先生の最初の長編小説で、雑誌「近代文学」に、1962年7月号~1963年1月号にかけて連載されました。この作品で、第4回近代文学賞を受賞しています。

『廻廊にて』が出版される前まで、辻邦生先生は約4年にわたるパリ留学をしているのですが、その影響か『廻廊にて』の舞台はヨーロッパで、昔の西欧の雰囲気が夢のように作品全体に漂っています。

二度の陶酔と絵画世界への開き


二度の陶酔と絵画世界への開き
二度の陶酔と絵画世界への開き

『廻廊にて』の主人公は、マーシャというロシア人の女性画家。1950年に亡くなったということですから、かなり昔の画家ですね。

語り手は、同じ画家仲間であり日本人である「私」という人物で、この「私」がマーシャの生涯を、残された日記や手紙をたどりながら追いかけるといった形になっています。

主人公のマーシャは、ロシアから亡命してきた女性です。幼い頃に父を亡くし、母と二人で、ドイツ、オーストリア、フランスなどを転々としながら、貧しい暮らしを送ってきました。

1920年、マーシャは母の再婚のため、フランスの修道院付属の寄宿学校に入学します。そこは、山奥にある古い灰暗色の修道院で、生徒達の一日は山のような勉強と宿題、労働や奉仕に追われる厳しい生活でした。

そんな学校に入学して半年たったある春の午後、ある出来事が起こります。

それはマーシャが一人、学校の窓から夕暮れの景色を眺めていた時のことでした。その日の夕暮れはことさら美しく神秘的に見えたので、マーシャは思わず我を忘れて、山の頂まで登ります。

すると、展望が開けた瞬間に、息もできない程の、自由な、空一杯に拡がるような解放感に襲われて、恍惚となってしまいました。痛みにも似た甘美な感情に刺し貫かれて、マーシャは、夢中になって、その風景をノートに描きます。

ところが、その恍惚状態が過ぎた時、ノートに残っていたのはあの素晴らしい恍惚の瞬間とは何の関係もない、黒っぽい風景のスケッチだけでした。

それは、私の前に拡がっている風景が、蒼ざめた宵空の下に、黒い死骸となって横たわっていて、そのどこからも、数十分前の奇蹟のような美しさを想像しえないのと似ていた

(『廻廊にて』より)





すっかり現実に引き戻されたマーシャは、先生から罰を受けることを覚悟しながら、真っ黒な岩がどこまでも続く夜の山道を恐怖におののきながら駆け下ります。転んでは走り、転んでは走り、カラダじゅうを打ち付けてケガをしながら、マーシャは思います。

こうして黒々と続く岩群の道のようなものがこの世というものなんだわ。こうして喘ぎながら、マチルド様(先生の名前)に黒い鞭を受けるんだわ。それも、自分ではよく判りもしない一時の陶酔のために……

(『廻廊にて』より)

これがマーシャの第一の陶酔の瞬間でした。しかし、この時は陶酔の歓びよりも、その後に襲われた幻滅と恐怖の方がくっきりと胸に刻み込まれてしまったようです。あんな風に恍惚状態になると、その後、恐ろしい恐怖に襲われると怖くなったマーシャは、しばらく、先生の言う通りに大人しく模範的に過ごします。

そのままだったら、マーシャは修道女達が望んだような敬虔な女性になったでしょうが、そうはなりませんでした。転校生アンドレに出会った事で、マーシャの運命は大きく変わっていくのです。

アンドレは、地中海風の黒い瞳を持つ不思議な魅力をたたえた女の子でした。修道女達のことは大キライと言い切り、「あの人達は生きることが好きではないのだわ」というアンドレは、生きるということに熱中している女の子です。

というのも、脊椎の病気のため12歳までベッドで寝たきり生活を送らなければならなかったので、自分一人で動いて生きるということがどんなに素晴らしい奇跡なのか、人一倍痛感しているからなのです。

そんなアンドレに魅了され、影響されたマーシャは、だんだん、寄宿学校の大人しい生徒の枠からはみだしていきます。そして、夏休みにアンドレに招かれて訪れた、アンドレの住む城館で、第二の陶酔を体験することになるのです。

それは、アンドレが普段使う塔の小部屋に一人いた時のことでした。美しい夕日が小部屋いっぱいに差し込み、マーシャは、山の頂の上で体験した時と同じような「痛みにも似た甘美な感覚」に再び捕えられてしまいます。

それがアンドレの小部屋で起ったせいか、その瞬間、マーシャの胸にはアンドレの面影が次々に横切ります。そしてもう夢中になって、アンドレの顔をノートに描いてゆくのです。

恍惚状態がさめた時、ノートを見たマーシャは驚きます。今度は、ノートの上に活き活きとしたアンドレの絵が残っていたからなのです。その絵からは、恍惚状態の時にマーシャが感じた歓びがはっきりと表れていました。

いまかいている絵のなかに、何かもっと濃厚な現実があって、それに較べると、前に感じた黒々とした重い現実は、妙に影のうすいものに見えてくるのよ

(『廻廊にて』)

マーシャがそう感じたのは明らかにアンドレの影響にちがいありません。黒い重い現実とは、マーシャにとってはむち打ちの罰や、幼いころの貧しい生活の中で経験した飢えや死そのものでした。けれども、それは、アンドレの「生きる」というまぶしいほどの歓びの前で影が薄くなったのでしょう。

この時から、絵を描く歓びに目覚めたマーシャは、熱心に絵を描きはじめます。

寄宿学校を卒業後、マーシャはパリの画塾で猛烈に絵の勉強をはじめ、みるみるうちに力をつけます。そして、大きな賞をもらったりと異例の才能を発揮して、周りの人々にも絵の才能を認められていくようになっていくのです。

絵画世界の失墜と次々に襲う喪失感

絵の才能を開花させて、燃えるように絵を描き続けていたマーシャですが、ある時突然、ふっつりと絵を描くのをやめてしまいます。それは、アンドレが飛行機事故により亡くなってしまったことが原因でした。

私には、あたりの物音が、急に、なくなったみたいに思えた

(『廻廊にて』より)

後にマーシャは、この時の思いを友人に手紙でこう書いています。

私はそれによって二重の喪失を味わいました。かけがえのない存在の死と、死を飾るものの死と、をです。私はそれによって、再びもとの生に投げ返されたような感じがします。

私には黒々とした岩群のような感覚の現実が、ふたたび立ち戻ってきたような気がします。それはまた、私がさまよい歩いていた自分の絵画的世界からの失墜でもあるような気がします

(『廻廊にて』より)

この手紙の後、マーシャは、自分の空虚をみたしてくれるものを求め、無意識のうちに故郷であるロシアの大地を目指します。

そして、故郷の農村に到着した彼女は、そこで、結婚をし、不思議な安らぎを見出します。マーシャは、友人に宛てた手紙にこう書きます。

ここでは、あの黒い重い現実は、私たちと和解します。敵対もせず、無視もせず、あるべきままに、受け入れられるのです。ここでのみ、それは恵みぶかい私達の大地となって、私達を永遠に保ってくれるのです

(『廻廊にて』より)

ところが、このロシアの大地で見出したはずの安らぎも長くは続きませんでした。彼女が生んだ赤ちゃんは生まれてすぐに死んでしまい、夫とは離婚。そんな不幸が重なって、マーシャは故郷を離れ、パリに戻ります。

その頃から、ヨーロッパは第二次世界大戦の影響で暗い雰囲気に包まれていました。マーシャの理解者となった友人がドイツ軍の手で処刑されてしまったり、マーシャと同棲するようになった彫刻家が精神的に病んで自殺してしまったりと、マーシャは次々に過酷な喪失体験を味わいます。

まるで悪夢の中で暮らすようにして生きていたマーシャですが、終戦後、ついに決定的な瞬間が訪れるのです。

真の自己の中に見るサマディー

真の自己の中に見るサマディ
真の自己の中に見るサマディ

 
それは春の夕暮れのことでした。マーシャはある美術館の中に迷い込みます。はっきりした目的で美術館を訪れたわけではなく、悪夢の中で迷い歩いているうちに、美術館の中にまぎれこんでしまった…というような感じで、彼女は、美術館に入ります。

そして、夕日のさす美術館のひっそりとした一室で、六連一組のタピスリを目にします。

その時のことを、マーシャは友人あての手紙にこう書きます。

私は、それまでにも、何度となく、この一角獣のタピスリを見ていたのですが、その瞬間ほどに、それが私を包み、また、私もその中に融けこんで、甘やかな歓びに貫かれていたことはありません。

私は、六連一組のタピスリが単にそこに在るというだけではなく、そこに、ある不動の、永遠と呼んでもいい、至福の空間があって、少女と花々と音楽と小さな動物たちが、何という調和に満ちた親密さで、それを充たしていることか、と、心の底に納得深く降りてくる或る感銘と共に考えるのでした

(『廻廊にて』より)

そのタピスリの中に永遠を感じた彼女は、自分が、説明しがたい平静さ、勇気、清朗さに充ちているのを感じます。彼女が大戦後の滅びの現実の中にいるのは変わりません。それなのに、彼女は、タピスリを見た瞬間、永遠の時間の中で生きているというまぶしい光のような実感に刺し貫かれます。

その時、突然、私は自分が全き自由になっているのを感じました。歓喜に充ちた自由となって、私は、万物と一つになっていました。私は消え、そして「私」がその時はじめて存在し出したのでした…

(『廻廊にて』より)

彼女が苦悩の旅をつづけた末、一角獣のタピスリの中に見出した永遠は、まさしく、ヨガでいうサマディーそのものだといえないでしょうか。マーシャが、そこでサマディーを見出すことができたのは、まるでヨギーが瞑想をし、修行をするようにして、絵を描き続けたからにちがいないと、私はそんな風に思うのです。

もちろん、彼女はアンドレの死後、絵を描くのをやめてしまいました。でも例え、筆をおいたとしても、やはり彼女は、絵画の世界を探し求めていたのです。黒々とした現実が薄らぐ絵画の世界…生き切ったという充足感に満たされる絵画の世界。

現実の辛い苦悩にもつぶされない永遠のものを探して、彼女は魂の遍歴を続けていたのです。だからこそ、一角獣のタピスリの前で、マーシャは、サマディーを見出すことができたのでしょう。

彼女はその永遠の中で、真の自分を見出します。それは黒々とした重い現実の死、アンドレをはじめとした親しい人々の死、そういうものに惑わされない新たな自分でした。

どんなに悲しい現実が待ち受けていても、それでもゆるがない真の自分を、マーシャはサマディーの中で見出すことができたのです。どんな悲しみにもゆるがない真の自分を見出すこと。それこそ、ヨギーが求め続けるもの、そのものではないでしょうか。

サマディーの中で永遠を見出し、ゆるぎない新たな自分を手に入れたマーシャは、再び、激しい熱意をもって絵を描き始めます。病気で彼女が亡くなるまでの二年間、マーシャは燃えるように絵を制作することに没頭します。

マーシャは言います。

自分のかいた絵が、たとえ、みんな屋根裏部屋にしまわれたとしても、別にそれを悔やまずに見ていられるような気がするのよ。(略)私の生涯が在ったというだけで十分なのじゃないかって思うの

(『廻廊にて』より)

そうです。マーシャが描いた絵が屋根裏部屋にしまわれるとか、評価されるとか、そんなことはもう、彼女にとってどうでもいいことなのです。彼女がサマディーを知り、そこに永遠を見出し、今、生きているという本当の歓びを知ったということでもう十分なのですから。

『廻廊にて』を読み終わった時、私達の胸にゆっくりと深い満足感と感動が押し寄せます。

私達は、マーシャのように永遠を見出すことは難しいかもしれません。けれども、マーシャの魂の遍歴を通じて、その永遠の世界をチラリとのぞき見ることができるのです。

最後になりましたが、『廻廊にて』は、学習院大学史料館主催のオンライン朗読会「声でつむぐ辻文学」にて、朗読されます。12月31日まで配信されるようですので、この機会にぜひ、辻邦生先生の生きる喜びに充ちた文学の世界を堪能されてみてはいかがでしょうか。

声でつむぐ辻文学『廻廊にて』

https://www.youtube.com/watch?v=y-Xhwv2VwU8 

参考資料

  1. 『廻廊にて(1948年)』辻邦生著(新潮社)
(注 引用の部分は読みやすくするため、本の記述と変えた部分があります。)