「ハレ クリシュナ」とジョージ・ハリスンは歌った

「あなたに会いたい」

‘60〜‘70年代、多くのミュージシャンやアーティストがこぞってインドに憧れた時期があった。その筆頭がビートルズで、実際にインドに滞在して瞑想を学び、そこからインスパイアされて多くの楽曲を完成させている。

中でもジョージ・ハリスンはインドへの傾倒が強く、『My Sweet Lord』という曲の中で、「あなたに会いたい」「あなたを知りたい」「あなたと一緒にいたい」と歌い、「クリシュナ、クリシュナ」と何度も讃えている。片思いの恋人に捧げるような切なさだが、ヨギーニやヨギーはこの曲に十分に共感できるのではないだろうか。

ベトナム戦争と非暴力

‘60年代は、ヒッピーカルチャーが爆発した時期だ。「ヒッピー」とは、それまでのキリスト教による保守的な考え方に反発したカウンターカルチャーと言われている。爆発的に広がった大きなきっかけの一つが、ベトナム戦争だ(1955−1975)。

いつまでも抜け出せない泥沼のような戦争に、誰もが鬱状態のような時代、徴兵を拒否する若者が出てくるようになった。この実際にあった話が、ミュージカルや映画『HAIR』として上演されると、一気に「ベトナム戦争反対」の気運が盛り上がり、広がっていった。

銃口に花を挿している写真を見たことがある人もいるだろうが、彼らの象徴が花だった。自分達の服装を花で装飾し、髪を伸ばし、自由に振る舞った。そんな彼らはフラワーチルドレンと呼ばれ、彼らの取った行動は「消極的抵抗や非暴力イデオロギー」と言われている(Wikipediaより)。

ちなみに、髪を切りそろえるのが保守派の正しい行動で、髪を伸ばすのはそれに反する行為だった。『HAIR』とはそこから来たタイトルで、後に日本での学生運動でも髪を伸ばすことは、一つの意思表示だった。松任谷由実が作詞した『イチゴ白書をもう一度』でも、そんな歌詞が出てくるので知っている人もいるだろう。

花はどこにいった

フラワーチルドレンの行動は、ヨガをする私達にとって重要な意味を持っている。彼らは非暴力だった。戦争という、人が行い得る最も醜い行為に反発し、人を傷つけない、自分を傷つけない方法を模索していた。その象徴が花だったというのは、とても示唆に富んでいるのではないだろうか。花はただそこに在り、誰のためでもなく、美しさをほめることを強要せず、誰かに認められなくてもいい。それでも人を慰め、喜ばせ、落ち着かせ、うれしくさせ、ワクワクさせて、安心させる。生物学的に言えば花なりの戦略があるだろうが、私達が受け取るエネルギーはあくまでも崇高だ。

ヒッピーカルチャーの一つにサイケデリックがある。これは脳内麻薬によって得られたアートだが、それも花模様がデフォルメされている。私達は花の美しさを愛でる精神がデフォルトでインプットされているのだ。

暴力とは、花を踏みにじる行為でもある。そこにある花に気づかず、平気で踏み潰していける人は、暴力行為を行える精神状態にあるのかもしれない。しかし、本来、誰もが花に気づけるはずなのだ。「HAPPY」の顕現である花と、私達は同じところから生まれているからだ。自分に問いかけたい。花を踏みにじる脚ではなく、ただ野に咲く花であるために、私達はどうすればいいのだろうか?

価値観をぶち壊せ!

ヒッピーカルチャーのもう一つの大事な要素は、「価値観の破壊」だ。フラワーチルドレンは、古い価値観のままではもういられないと、行動で示した。いいものもいいと思えないものも、自分の価値観はどこから生まれているのか。この価値観が生まれた種は、親や社会や他人から植えつけられたものではないだろうか?

大事なのは、今の価値観がいいとか悪いとか判断することではなく、「本当にそうなのだろうか?」と一度疑いを持ってみることだ。そして、自分は本当はどう思うのか吟味すること。そこに違和感はないのか。ないならOK!それが今の自分にとって選ぶべき答え、ということになる。でも、違和感があるなら、その正体を探ってみるといいだろう。そこから得る答えが、最初と同じでもかまわない。探ることに意味があるからだ。

「信じるな 疑うな 確かめよ」

「with コロナ」が当たり前になってきている。コロナは常に隣にある。では、どうしたらいいのか? 今までの価値観、考え方だけでは進めない時代になってきているのは確かだ。沖ヨガの創始者、沖正弘氏はこう言った。「信じるな 疑うな 確かめよ」。私達は、自分の世界を自分で創っている。同じシーンにいても、自分と他の人では見え方が違うのは、それぞれがおのおのの世界を創っているからだ。同じものを観ていても同じものではない。それを意識していないと、ものごとはどんどんすれ違っていく。だから、人の言葉を鵜呑みにしたり、よく吟味せずに判断するのはコワイこと。何ごとも「信じるな 疑うな 確かめよ」だ。その視点を持って、自分が心地いい世界を創っていくことが必要だろう。

ヨガをする私達は、教典の教えを知っている。だからそれを判断基準にするのは、一つの芯ができるし、筋が通ってわかりやすい。しかし、それさえ鵜呑みにしてはいけない、というのがヨガの教えだ。まずは自分で考える。人として生まれた特権は、自分で考えられることだ。そして、ヨガとは「自分の道を自分で作っていくこと」だ。

現代のフラワーチルドレンは、自分の在り方をもっと深く考えていく必要に迫られている。自分の真我が望むこと。真我が「自分らしく」いられることとは何だろうか?