ヨガで育む寛容さ〜真実(自由・幸せ)を、生きるために〜

ヨガで育む寛容さ〜真実(自由・幸せ)を、生きるために〜

首相より緊急事態宣言が発出されて4週間が経過しました。この期間において我々の日常生活は様変わりしました。

これまで毎週行っていたヨガ教室、定期的に会う気のおけない友人との会食、身体が弱った遠方の祖父母に会い、触れ合うこと。当たり前に行われていた日常の生活が遠くのものとなり、これほどまで日常はありがたく、美しいものだったのかと改めて感じます。

翻って目立つのが、人々の分断です。誰しもが不安になる新型コロナウイルスが流行している状況下において、自分と違う思想や行動をとる人を批難したり、追求したりする動きが認められます。

NHKニュースの報道で劇作家の平田オリザさんが、社会の寛容さが失われている現在、文化が我々の生活に非常に大切であると指摘した上で、次のようにインタビューで答えていらっしゃいました。

もちろん命はみんな大事ですよね。それは守らなきゃいけない。だから当然自粛もしなきゃいけない。一方で、命の次に大切なものは一人ひとり違うんだと思うんです。

音楽がなきゃ生きていけないという人もいれば、演劇で人生が救われた人もいれば、スポーツが生きがいの人もいる。

何に救われるかは一人ひとり違うので、「あなたは必要ないかもしれないけれど、人によっては命の次に大切なんだ」ということをご理解いただければなあと。


「演劇に、いま行けなくて残念ですね。私は家で映画を見ていますけど、この主演の人ってもともと演劇出身なんですよね」というふうに、他者にちょっとずつ寛容になるということが大事だと思います。

“この瞬間”の可能性に、眼差しを

“この瞬間”の可能性に、眼差しを
“この瞬間”の可能性に、眼差しを

ヨガクラスで新型コロナウイルスのクラスターが発生したことで、ヨガに対する厳しい視線が向けられました。

しかしヨガは文化でもありますし、生徒さんにとっては健康維持としても日常生活にとって欠かせないものであり、先生にとっては生活の糧でもあるわけです。筆者もヨガクラスを中止することを悩みに悩み、中止について苦渋の決断をしました。

しかし、平田先生がご指摘されるように文化を守るため、他者への寛容さが私達に求められているのではないでしょうか。

筆者は現在マインドフルネスの研修を受けています。1年も前からこの研修は予定されていましたが、新型コロナウイルス流行の影響で先生方のご厚意によりオンラインに移行したのです。

マインドフルネスとは「意図して、今の瞬間に価値判断に囚われず、注意を向けること」と定義されます。

MBSR(マインドフルネスストレス低減法)を世に送り出したジョン・カバット・ジンは

大変なこと、困難なことにも対処の仕方はあります。マインドフルに意識することがこのアプローチの根本にあります。なぜかと言えば、認識し、学び、成長しそして変容するのはこの瞬間しかないからです

と指摘し、今ここの瞬間の大切さを説きます。

考える対象を選択できる“自由”がある

研修では、講義はもちろんですが実践が重要視され、毎日60分程度の自分に向き合うヨガや瞑想などのプラクティスを行う宿題が課せられます。

このマインドフルネス研修がどれほど筆者自らのメンタルヘルスに対して役立ったのかわかりません。医療関係者として率直にいえば、緊急事態宣言の下、筆者も困難な時期です。

しかし、このような時期にあえて自分の時間をとることでベースラインに戻ることが大切であると、講師の先生方から繰り返し温かく伝えられ、そして励まされました。このような時期だからこそベースラインにもどりストレスフルな日常を切り抜けることができたと感じています。

その研修においてとあるスピーチが紹介されました。作家であるデヴィッド・フォスター・ウォレスが2005年にケニオン大学で卒業生に向けておこなった「これは水です」と題されたスピーチです。

筆者はそこで紹介されるまで知らなかったのですが、アメリカにおける大学の祝辞でナンバーワンと称される名スピーチです。

我々の反応は自分で選択することができる。考えるべき対象を選ぶことができる。それこそが教育の賜物である

このようなメッセージは寛容さが失われつつある今日においても示唆的です。

困難なときこそ、“考えること”の“本質”を学ぶとき

困難なときこそ、“考えること”の“本質”を学ぶとき
困難なときこそ、“考えること”の“本質”を学ぶとき

このスピーチでは、金魚は、泳いでいる水の存在がわからないという比喩を出していますが、それは「あまりにもわかりきっていて、ごくありきたりの一番大切な現実というものは、えてして目でみることも、口で語ることも至難のわざである」ということを指し示しています。

しかし社会人になり、繰り返される日常を送っていると、そんな当たり前だが、とても大切なことさえも忘れ去られてしまうのだとデヴィッドはいいます。

さらにデヴィッドは「ものの考え方を学ぶ」とは本当はなにをどう考えるか、コントロールする“すべ”を学ぶことだと指摘します。そうです。大変なときに我々は考える対象を「選択」することができるのです。

毎日のルーティンワークで疲れ果てたあと家に帰ると、夕食の食材がないことに気がつく。夕飯の材料を買おうと車でスーパーに向かうと渋滞に巻き込まれる。

やっと入ったスーパーでは携帯で大声で話す女の子、死んだような目をしたお客さん、レジ前の長蛇の列、そしてスーパーを出てから家までの道で割り込んでくる他の車……。

当然苛々して、絶望的になります。ことほどさように自分の周りで起きている煩わしい日常の出来事をどのように考えるかをコントロールすることが難しいのは我々も身にしみてわかっています。

なぜならば私達の脳のデフォルト設定が「自分こそが世界の中心である」からです。「それはオートマチックで、無意識まかせの思考法で世界の序列を決めるべきだと無意識に信じ込んで、なりゆき任せにすると退屈で苛々して、人いきれにあえぐ社会人の一面を体験することに」なるのだから。

しかし、意識的に物事を見つめ、「あなたが何を考えたいのか」を選び取ることが、人間にはできるのです。

ほんとうに大切な自由というものは、よく目を光らせ、しっかり自意識を保ち、規律を守り、努力を怠らず、真に他人を思いやることができて、そのために一身をなげうち、飽かず積み重ね、無数のとるにたらない、ささやかな行いを、色気とはほど遠いところで、毎日つづけることです。

それこそが本当の自由なのだとデヴィッドは結んでいます。

脳の初期設定を更新し“苦悩という幻想”に惑わされない

またデヴィッドはこころについて、「気の利く召使いだが、恐ろしい暴君である」ということわざを引用し、

社会人生活が、頭の奴隷に変じて尊大にも唯一無二の存在として孤立し、生来の初期設定のまま(自分が世界の中心であると考え)来る日も来る日も過ごすということをいかに避けるかにある

とも触れています。ヨガの聖典にも以下のような文章があり、その近似性に驚かされます。

人間は自由になるため世界にきた。

自由になる術は、自分の真実を知ることにある。苦悩しているという考えは、実体のないものに過ぎない。本当に実体があるのは、考えを観る存在であり、考えの本質である自分自身である。

自分自身とは、自由で、幸せの意味である

自由への扉を開けるための生き方、そして心が静まり、苦悩に揺れ動くことがない状態を目指す“すべ”がヨガなのです。

新型コロナウイルスの蔓延で我々の心は不安に満ちています。そんなときに考える対象を選びとり、他者に寛容になることが求められています。そしてその“すべ”の一つとしてヨガがあるのではないでしょうか。

ヨガやマインドフルネスを通じ、自分と向き合い、他者への寛容さを育むことが今必要とされているのだと、筆者はそう信じています。

参考資料

  1. 平田オリザ先生インタビュー
  2. デヴィッド・フォスター・ウォレス『これは水です』(田畑書店、2018年)
  3. 注(1)VTRは2013年にスピーチの一部を映像化したものです。本文の引用は翻訳された本書からのものです。
    注(2)デヴィッド・フォスター・ウォレスは躁うつ病を患っており、本スピーチを行った3年後に46歳で自死しています。スピーチの一節に「30歳になるまで、いや多分50歳になるまでには、どうにかそれ(本当の自由)を身につけて銃で自分の頭を打ち抜きたいと、思わないようにすること」とあり、あまりに早い死が悔やまれます。

  4. 向井田みお『やさしく学ぶYOGA哲学 ヨーガ・スートラ』(アンダーザライトヨガスクール、2015年)