クリシュナの“放棄と捨離”は行為を捨てること

クリシュナの“放棄と捨離”は行為を捨てること

人生を豊かにするためには、足し算ではなくて、無駄なものをなくしていく引き算の考え方が必要になります。こうした、不必要なものを手放して余裕を作る断捨離の考え方はとてもポピュラーで実践している方も多いのではないでしょうか。

『バガヴァット・ギーター』でも、手放すこと・捨離の教えが幸せへの道として考えられられています。ヨガで捨てるべきものは物質ではなくて行為(カルマ)です。

放棄(サンニャーサ)と捨離(テイヤーガ)とは

クリシュナは『バガヴァット・ギーター』の中で、心を清浄するための放棄と捨離について説明しています。ギーターで手放すべきものは、物質ではなくて行為そのものだと考えられています。

  • 放棄(サンニャーサ):放棄とは願望成就のための行いを手放すこと。
  • 捨離(テイヤーガ):行為の結果を捨てる。

これは、目に見えやすい物質的なモノや人間関係ではなくて、「行為」や「行為の結果」を捨てることを意味しています。

インドの哲学では、世界のすべてのものには原因があると考えられています。それが「カルマ(行為)」です。人生のあらゆる苦しみもすべて、行為の結果であるカルマによって生まれてきます。

カルマヨガの意味とは?行動・人生を変える日常での実践方法

放棄とは行いへの執着を手放すこと

願望成就のための行いとはどのようなものでしょうか?それは、個人の欲を叶えるために行う行為です。自己中心的な行為は言語道断です。自分が利益を得るために、他人に嘘をついたり奪うような行為は、一番に捨てなければいけません。

しかし、一般的に正しいと思われている行為であっても放棄すべき行為に当てはまる場合があります。

例えば家族のために食事を作るとします。旦那さまは油っこい食事が好きだけど、健康が心配なので野菜中心、油分の控えめな献立を選んで作ってあげているとしましょう。しかし、旦那さまは野菜をあまり食べません。それどころか食後、自分で買ってきたポテトチップスを食べていたとしたら……。やはり、悲しくなってしまいますね。

しかし、悲しくなるのは、「自分が良い事をしているのだから、周りもそれに従うべき」という考えが働いているからかもしれません。

このような考え方は人間関係の衝突になりかねません。「感謝して欲しい」、「評価されたい」という無意識の願望を手放すことで、押し付けではない良い行いが何かを冷静に考えることが可能になります。

「自身が気持ちよくなれる(褒められる)願望のための行為」を放棄すると、行為を行っていながらも、執着が原因で生まれる様々なカルマが消えます。

カルマを理解して、あらゆるしがらみから解放される

放棄することをサンニャーサ・ヨガ(放棄のヨガ)と呼びます。行為をしながら行為をしないというのは最初は理解が難しいかもしれません。「行為を放棄=何もしないこと」という勘違いを生みやすく、実際にインドの一部のサンニャーサ・ヨギーは、できるだけ行為をしないで生活をしています。

行為をしながらも、行為しない

行為を捨てる=行為をしないと解釈しても、現実には生きている限り不可能です。

もちろん行動の量が減れば行為の結果も少なくなります。しかし、量が減るだけで、カルマからの完全な解放に到達することはできません。

人間は生命を維持するためには食事を頂かなくてはいけません。寝ること、起き上がること、息をすることさえカルマとなります。達磨大師のように、全く食事もせず、睡眠もとらずに瞑想に没頭すればいいのでしょうか?それも現実的ではありません。

『バガヴァット・ギーター』は社会生活を行う一般の人にとってのヨガを書いた教典なので、日常生活でできるように説明されています。

行為の結果への執着を捨てて、常に満足し、多に頼らぬ人は、たとえ行為をしていても何も行為をしていない。(『バガヴァット・ギーター』第4章20節)

願望、目標のために行動すると、その行動に必ず執着心が生まれます。それが業報となり、私たちはいつまでもカルマのしがらみから解放されません。

自身に課せられたダルマ(義務)を全うしながらも、結果は神にゆだね、与えられたものを受け取る。自身の行いそのものに満足して執着心を抱かない。それが行為の放棄です。

捨てるべきでない行為もある

ギーターでは、行為を放棄、捨離すると説きながら、捨ててはいけない行為についても触れられています。

祭祀と布施と苦行の行為は捨てるべきでない。それは行われるべきである。賢者たちにとって祭祀と布施と苦行は浄化するものである。(『バガヴァット・ギーター』18章5章)

これらの行いによって、自分自身の精神を磨き上げることができます。

<祭祀>

本来は神様に捧げる儀式のことを意味しますが、宗教的な行為だけが祭祀ではありません。自分自身の行為をすべて神への祭祀として行うことがギーターに書かれた祭祀です。

会社で仕事をしている時でさえ、「お金のため」ではなく、結果を求めずに行います。祭祀として行うと、すぐに上司に評価されなくてもイライラしなくなります。ヨガはどこまでも心を制御するトレーニングです。

<布施>

他人に見返りを求めない
他人に見返りを求めない

お布施に関しても、神社仏閣にお賽銭を入れることだけを意味しません。自分の所有するものに執着せずに、快く手放すためのトレーニング。

神社のお賽銭箱にお金を入れるときには「もったいない!」とは思いませんよね。同じように周りの人にも喜んで与えられる人になると良いでしょう。捧げるものは金銭だけに限りません。他人に見返りを求めない親切をすること、時には心からの笑顔も尊い布施となります。

<苦行>

自分自身に約束したことを守る
自分自身に約束したことを守る

苦行は心の不純性を燃やすために必要な行為です。肉身体にとって苦痛を与えるような苦行は適切ではありません。自分が決心したことは何でも苦行となります。毎日瞑想を30分行う、お酒を断つ、など、自身に向けて約束したことを守る意思の炎こそが自身の心を浄化します。

苦行?熱業?タパスって、どんな実践?

このように、「行うべき行為」と「放棄すべき行為」の間には、現実的には違いがありません。同じ行動をしていても、心の在り方によって「執着を生む行為」にもなるし、「心を浄化する祭祀」ともなりえます。

サットバ・ラジャス・タマス、3つの捨離

世の中のすべてのものはサットバ・ラジャス・タマスという3つの性質によって構成されています。放棄・捨離にも3つの性質があります。

  • サットバ(純質):定められた行為を、執着と結果を捨てて行うこと。
  • ラジャス(激質):ただ苦しいから、肉体的苦痛を恐れて行為を捨てる。
  • タマス(鈍質):決められた行為(義務)を行わないこと。

行為を捨離しなさいとクリシュナは説きますが、行為を行わないことは逆効果です。行為をしないところに行為の放棄はあり得ません。

もしも行為すること自体を放棄してしまいダルマ(義務)を遂行しない場合は、それはタマス(鈍質)な捨離となります。タマスとは怠慢さであり、不純さを増幅させます。

苦痛を恐れて行為を行わないことはラジャス(激質)な捨離です。人間は、現状を変えることをとても恐れるようにできています。現在できていないことにチャレンジする時には、心の強さが必要です。勇気がなくて、失敗を恐れて行わない行為はラジャス的な捨離です。また、現在与えられた義務を逃げるように放棄することもこれに該当します。

ヨガとしての捨離で捨てるのは、執着と結果です。サットバ(純質)な清らかさを生む捨離で捨てるものは、自身の心の不純物だけです。

放棄・捨離で得られる解脱

行為の結果を放棄した人のことをサンニャーシン(放棄者)と呼びます。

行為の結果にこだわらず、行うべき行為を遂行する人は、サンニャーシン(放棄者)と呼ばれるヨギーである。祭儀を行わずに、行為を行わないものは違う。(『バガヴァット・ギーター』6章1節)

「行為を行う⇒結果を放棄する」というのは、ヨガの境地への道です。

行為しながら自身の心をコントロールしていくと、あらゆるしがらみからの解放が訪れます。ヨガは、解放のためのプロセスです。自身の心が解放されると、物質世界のあらゆる出来事はあなたを傷つけません。

放棄のヨガ(サンニャーサ・ヨガ)を行うために、物質的な断捨離からスタートするのも一つの方法です。身の周りに物質や人間関係、仕事が多すぎると、心を理解して制御するのが困難になります。

物質を捨てる時にも、どうして捨てるのかを理解しましょう。物理的に生活がシンプルになることで、生き方がシンプルに変わるということも、目的の一つになりますが、同時に心にスペース・余裕が生まれることを感じることが大切です。

自身の中の不純物を捨てていくことで、自由で開放された自分自身に到達することができます。

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