ヨガ本来の目的を知り、終わりなき幸福へ

ヨガ本来の目的を知り、終わりなき幸福へ

ヨガを練習している皆さんにとって、ヨガの目的とは何でしょうか?健康になりたい、ダイエット、ストレス解消、リラックス、自分磨き……など、まさに十人十色の目的があることと思います。

人それぞれ、ヨガに求めるものが違うことは当然ですが、ヨガの本来の目的は何か?と考えたことはありますか?ヨガを深めるためにも“ヨガ本来の目的”を理解することはとても大切です。

古典経典に見る、ヨガの本質

古典経典『ヨガスートラ』と『バガヴァット・ギーター』では、ヨガの目的についてどのように書かれているのか、見ていきたいと思います。

ヨガスートラの場合

冒頭で、ヨガの定義について、次のように書かれています。

ヨーガとは、心の動きを止滅させることである。(ヨガスートラ1章2節)

ヨガでは、私たちの頭の中を常に埋め尽くしている思考をすべて止めます。ヨガによって思考がすべて消え去った時に、本来の目的であるプルシャの独立が起こります。

そのとき、見る者は自己の本性に安住する。(ヨガスートラ1章3節)

見るものとは、プルシャ(真我)を意味します。プルシャとは私たちに宿る魂、もしくは霊魂のようなものです。

このプルシャと対極にあるのがプラクリティ、つまり物質世界のすべてです。肉体はもちろんのこと、感覚、感情、思考を含む心の働き(チッタ)もすべてプラクリティから作り出された物質世界のものです。

物質世界にフォーカスして生きることには楽しみもありますが、生命をもって生まれてくると必ず苦しみを伴います。その苦しみは、人間として生まれた人にとっては自然なことです。

物質的なものへの執着を捨てることによって、本来の自分に出会うことができます。誰もが持っている本当の自分(真我)は、何も足さなくても穏やかに幸せな存在です。プラクリティの作り出した外の世界に気を取られずに、自身の内側に宿る本当の幸せに気が付くことがヨガの道です。

バガヴァット・ギーターの場合

ギーターに記される、ヨガに成功してサマディに達した人の定義
ギーターに記される、ヨガに成功してサマディに達した人の定義

ギーターでは、ヨガに成功してサマディ(三昧)に達した人のことを次のように説明しています。

心に宿るあらゆる欲をすべて捨てて、アートマンにのみ満足するとき、その人の知恵は確立したと言われる。(バガヴァット・ギーター2章55節)

ヨガスートラでプルシャ(真我)本来の状態を目標とするのと同様に、ギーターでもアートマン(自己)の本来の状態を目指します。アートマンに到達したヨガの状態とは次をいいます。

  • 不幸に悩まされない
  • 幸福を渇望しない
  • 執着・恐怖・怒りを手放す
  • 何に対しても愛着がない
  • 好ましいものも、好ましくないものも受け入れる
  • 喜びも憎しみも抱かない
  • 対象に対する感覚を制御

ギーターのヨガでも、あらゆる感覚と感情を制御し、思考も止めます。つまり、『ヨガスートラ』でも、『ヴァガバッド・ギーター』でも、心の働きを弱めていくことで本来の自身の姿に気が付くことが目的なのです。

“引き算”の哲学で、苦を回避

「まだやって来ていない未来への苦は(ヨガによって)回避されるべきである(ヨガスートラ2章16節)」

すでに起こってしまった過去を変えることはできません。すでに起きてしまっている苦痛は、解消しなければいけません。しかし、未来に対する不安や、これから訪れる苦は回避することができます。

ヨガは足し算の哲学ではありません。「これをしたら幸せになれます。」といったポジティブな理論ではないので、派手な魅力は感じにくいでしょう。

ヨガは引き算です。今ある不要なものを手放していくことで、平穏で終わりのない幸福感を得ることができます。苦しみの原因となる無駄な執着や思い込みを手放していくことで、結果的に幸せが訪れます。

見るものと見られるものの結合こそが、回避すべき苦の原因である。(ヨガスートラ2章17節)

プルシャ(真我)とプラクリティ(物質)が結びついてしまったことがすべての始まり。本来真我にとっては「良い」も「悪い」も境目がありません。しかし、様々な心の働きによって、間違った知識(無知)、執着が生まれ、結果、それらが苦しみを感じてしまう原因となっています。

複雑になってしまった心の働きを、ひとつずつ紐解いて、手放すのがヨガです。その結果として、最終的に至れるのが「心の動きを死滅させること」です。

すなわち、ヨガの目的は、心を制止させてプルシャを解放することで、あらゆる苦しみを手放すことだと分かります。

ヨガとは、本当の自分を取り戻すこと

私たちが見ている世界はすべて幻影であり、ヨガにとっての真実はプルシャの状態のみです。プルシャは途絶えることのない至福の状態。限りなく純粋であり、たとえ周りの世界が汚れていても影響を受けずに光り輝いています。

ヨガの境地に達した人は蓮の花にたとえられます。

蓮の花は、たとえ泥水の中にいても、泥をはじいて汚れることがないように、ヨガの境地に達した人は、周りの環境がどうであれ、自身の純粋さを失いません。強い芯の部分を自覚しているため、自分を保つことができるからです。

この境地に達するには、周りばかりに目を向けず、しっかりと自身を見つめる必要があります。

そのために有効なのが、アーサナでの意識づけ。アーサナの練習は、フィジカルな側面だけに集中していると考えられがちですが、行っていることは自分自身との対話です。

練習中には自身の身体の動き、感覚、心の動きに意識がしっかりと結ばれています。それは、「今」にしっかりと集中することです。この瞬間に関係のない外の世界のことや、過去・未来への不安は消えていると思います。

急激に自身の中心部であるプルシャに到達することはできませんが、アーサナの練習であっても、しっかりと外から内側への意識づけのトレーニングになっています。それは、身体に起こる変化の何倍も価値があるものです。

日常のヨガで大切なのは、独立心

ヨガをしているほとんどの人が、ダイエットや身体の不調を整えることを目的に、始められたことでしょう。

しかし、ヨガを継続し、より深く学びたいと思うのであれば、ヨガを実践する、確固たる目標をしっかりと定めておかないと、迷子になってしまうでしょう。

多種多様なヨガがあってもヨガの目的はたったひとつ、本当の自分に出会うことです。本当の自分は物質世界にはありません。とても精神的なアプローチによってのみ、とらえることができるのです。

ヨガで身体が若々しく美しくなっても、その美貌は永遠には続きません。自身の身体を良い状態に保つことはとても大切ですが、手に入ったものに執着をしてしまうと、若さや生命を失う苦しみ(未来への不安)が、絶えず沸き起こってきます。

ヨガによって求めていた健康が手に入り、見た目も美しくなり、人間関係も安定し、とても大きな効果を得ることができたとしても、一番大切なものは自身の内側にあることを忘れないようにしましょう。

一番大切なものは自身の内側にあることを忘れずに。
一番大切なものは自身の内側にあることを忘れずに。

ヨガによる心身への、何らかの効果を得ると、ヨガへの執着が強くなることがありますが、定期的に通っていたヨガのクラスが、転勤や身内の介護で急に続けられなくなることもあります。

大切なのは、ヨガのクラスにさえ執着しない独立心を確立することです。

独立心とは、自分自身の本質(純粋さ、幸せ)に意識を向けて満足できる心の状態です。

それに気づけると、環境が変わっても幸せを忘れないでいられるようになります。

完全なサントーシャ(知足)こそ、ヨガの境地

ヨガ八支則のひとつでもあるサントーシャ(知足)は、今あるものに満足するという意味です。その最たる境地が、自分自身の本質に満足した状態です。自分自身に満足すると、周りの環境に左右されず、いつだって幸せでい続けられます。

とはいえ、それは仙人のように無欲になることではありません。美味しい食事やショッピングなどは今まで通り充分に楽しんだっていいのです。

ヨガによって独立心が生まれると、物欲があったとしても、手に入らない状態を苦痛に思わなくなってきます(物欲自体も減りますが)。素敵なものが手に入ると嬉しいものですが、手に入らなくても不満に感じることがなくなるのです。

なぜなら、それがあってもなくても、すでに自分自身は幸せに満たされているからです。現代を生きる私たちにとってヨガとは、日常生活をよりよく生きるための学びそのものといえるでしょう。

すべては、自分自身に向けての道

ヨガとは、自分を知り、自分に満足するためのメソッドと表現をすると、とらえ方によっては、ヨガを自己中心的なアプローチと受け取る方もいるかもしれません。しかし、自分自身が幸せだと知っている人は、外の世界と戦いません。

つまり自分に満足すると、結果的に周りの環境も優しさで満たされるようになるということです。

日常生活では周りに意識を向けなくてはいけない時間が多いかもしれませんが、ヨガの時間はしっかりと自分自身に向き合うこと。その目的を意識すると、ヨガが一気に深まるのではないでしょうか。

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