yoganosisyoumain.jpgヨガの師匠が子供?!

ヨガをしていくと、ポーズだけではないことを知る。
呼吸法という方法を知るが、やはりそれもまた1つのツールでしかないことを知る。

何がヨガかを、実は「生きること」「自分という生命体」に対して問いかけることになる。
それは先代が築き上げたヨガの教えからであり、瞑想という方法からなる
「すべてを手放して魂が宇宙規模で繋がる」サマディという究極の状態に行きつくのだが、
そこへは日常を過ごす私たちには非常に安易な事ではなく、
修行僧の中でも究極を極めた人が辿り着くことができる場所と言われている。

しかし、せっかくなのだからヨガをするからには、その「サマディ」を味わってみたい気もする。
実際、ここに書いている私も「サマディ」は味わったことがない。
だから、こんな世界だったともこんな気持ちだったとも言うことは出来ないのだけれど、
ヨガの教えを紐解くと少しだけ近づけていくように思う。

yogano-1.jpgヨガの中には八支則というものがあり、ヨギーニたちはそれに基づいて日々を送る。
日常のあらゆるシーンでその八支則は活かすことができ、マットの上だけがヨガでないことを物語る。

例えば「ヤマ=禁戒」「ニヤーマ=勧戒」
ヤマの中には社会的行動に関する慎むべき5つの項目があり、ニヤーマには自分の行動に対する5つの項目がある。
非暴力、正直、禁欲といったものがヤマで、清浄、知足、苦行といったものがニヤーマにあたる。

これらは、「瞑想するために不快なものを手放す」ための修行に値すると言われている。
しかし、私たち一般人にとって禁欲と言えども、食欲や物欲へのコントロールすら難しい現実なのは免れることが出来ない。
だからといってヨギーニ失格というわけではない。「出来ることから」という意識を持ってヨガというものを続けて欲しい。

yogano-2.jpgさて、本題に戻ると「欲を知らなければ手放す努力が必要ないのでは?」ということだ。
「欲を知る」のは生きて行く糧の中で大人になればなるほどその知恵と知識を身につける。

では逆算するとどうだろうか。年を重ねるのではなく、原点に戻るということ。
つまりは、子供にフォーカスすることになる。

多少の欲はあっても、幼少期であれば自我を傷つけるような行動や指針を持つ知恵はないし、何よりとても素直だ。

私たち大人が子供を教育するというが、実は「自分自身を知るために欲を手放す」行為というもの自体、私たち大人に向けたものなのかもしれない。
ということは、子供はその存在自体が「何も纏っていない自分自身」であり、行動や言語に本心がある。

ヨガを日常に置き換えた時に、すでに実行している生き物は「子供」なのだとしたら…。
ヨガの師匠は「子供たち」なのでは?! という面白い関係が生まれるのかもしれない。

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