山本邦子インタビュー

動作学をヨガ業界へ。トッププロを陰で支え続ける:山本邦子インタビューvol.1

MIKIZOこと酒造博明のプロフィール写真
MIKIZOこと酒造博明のプロフィール写真
俺、凄い紹介してもらってん!べー、紹介するわ!

 
わが社には、リーダー会議と言う名の会議(マヌケな名前)があるのですが、その会議の際、キラキラした目をさせながら、弊社代表のMIKIZOが話していた日を思い出します。だいたいこういう状況のときは無茶ぶりしてくるのが、ヨガジェネあるあるなのですが、同時にこういうときのMIKIZOの勘はとてつもなく鋭く、そしておもしろいことになると相場が決まっています。

こんにちは!ヨガジェネレーションのべーです。

この度、ヨガジェネレーションで初開催されることになった、ヨガ動作学基礎講座。「動作学」耳慣れないこの言葉を知っている人は少ないのではないでしょうか?

今日は、この「ヨガ動作学」を担当して頂く、山本邦子先生をインタビュー。凄い経歴の持ち主である、邦子先生のこれまでを記事にさせて頂きました。

ヨガ業界に新たな風を。異業種からの参入

山本邦子先生がプロメテウスを持っている
写真撮影中。カメラへのサービス精神旺盛な邦子先生。色んな表情を見せてくれるので楽しい撮影に

今回、ヨガ動作学を担当して頂くことになった、山本邦子先生。そもそも、どんな先生なの?どんなバックグラウンドの方なの?というヨガジェネユーザーは多いはず。

それもそのはず。ヨガ動作学の講座ページをご覧になった皆さんは、すでにご存知かもしれませんが、邦子先生の本職はアスレティックトレーナー。

あの有名なプロゴルファーの宮里藍選手やプロ野球選手を始め、日本最高峰のミュージカルを楽しむことが出来る劇団四季の専属トレーナーも務めていたという、記事の冒頭でMIKIZOが「凄い人に出会ったねん!」という言葉通り、トッププロと呼ばれる人々を陰で支え続けた人物。

その半生は、高校卒業後、アメリカへ渡るところから始まります。

「ジャーナリストになりたい」高校卒業後、アメリカの大学の日本校へ

「高校時代は新体操をしていて、大学受験の勉強も全然していなかった。」と話してくれた、邦子先生。高校3年で進路を決める際も、この先どうしようかということは具体的に決められずにいたそう。ただ、偶然にも、早稲田大学スポーツ科学部(人間科学部)が新設になった年で、学校の先生からも「今なら早稲田の推薦が取れるかもしれないけれど興味があるか」と聞かれます。

早稲田大学と聞けば、誰もが知る有名私立。普通の人であれば2つ返事で進学を決めるような学校ですが、

当時、邦子先生は父親から

体育・運動を勉強するために、筑波大学に行くなら学費は出す。それ以外は許さない

と言われ、進学を諦めます。しかし、これが、邦子先生のその後の人生を大きく変える1つの転機に。

山本邦子先生
山本邦子先生
その後、大学には行かず、母親の勧めもあって、アメリカの大学で日本校のあるテンプル大学に行く事にしました。アメリカの大学って、入ってから学部を決められるんですよ。だから、入ってから好きな道を探すのも有りだなと思って。

しかし、「当時高校時代の英語の成績は2。学部に入るにはまず英語を勉強しなきゃいけなくて」と邦子先生。

山本邦子先生
山本邦子先生
英語の先生が大嫌いで。(笑)アメリカの大学の日本校に行く、と言ったら「山本、おまえ、何言ってるんだ」みたいなことを言われて。(笑)でも社会の先生や国語の先生たちには、「山本は読解力があるから、やれば出来る」と言ってもらえたから、そのまま、英語学校に進むことにしました。

と話してくれました。

厳しい父親を説得。単身アメリカへ

山本邦子先生のアメリカの大学時代アトランタオリンピックにて
1996年。アトランタオリンピックにて。邦子先生は左から2番目。

しかし、進学した英語学校にもたった3ヵ月で、行かなくなってしまいます。

山本邦子先生
山本邦子先生
そこに居る人たちはアメリカに憧れを抱く、パーティピープルみたいな人ばかりで(笑)そこで勉強する気になれなかったんですね。アルバイトばかりしていました。ただ、その時に付き合ってた人がアメリカに行く準備をしていたんですね。

その当時の恋人がきっかけとなり、日本で勉強するだけが道じゃない、アメリカに行くという選択肢もあることに気が付きます。

山本邦子先生
山本邦子先生
でも、問題は父親。どうやって説得するかを考えて、結果、『ジャーナリスト・ジャーナリズムを勉強したい』と言えば、父親は許してくれるかもと考えて、準備を整えて父親に相談したんですよ。

当時の日本ではジャーナリムを勉強するには専門学校しかなく、大学で勉強できるところはなかったと云います。

山本邦子先生
山本邦子先生
許可をもらう前に、入学願書などは取り寄せて、陰で準備をしながら(笑)父親に、「アメリカにジャーナリズムを勉強したい」って相談して。そしたら、「日本で勉強できなくて、アメリカで勉強できるなら」と言って、許可が下りたんです。

そこから、カンザス大学の入学許可が下りて、「飛行機のチケットを取ってほしい」と両親にお願いしたのは、アメリカに出発する、たった2ヵ月前だったそう。

これには、話を聞いていた、私も驚きましたが(笑)高校を卒業して1年半。20歳のときに、邦子先生は日本を離れ、単身アメリカへと旅立ちます。

アパルトヘイトがジャーナリズムに興味を持つきっかけに

黒人専用のベンチ
アパルトヘイトの政策中は公園のベンチも白人用と非白人用に分けられていた。

しかし、そもそもなぜ、ジャーナリストだったのでしょうか?この質問を邦子先生にすると、「1つは父親を説得するため。(笑)アメリカに行くには、日本では勉強できない分野じゃないといけなかったから。」と話してくれましたが、もう1つ、子供の頃の印象的なお話をしてくれました。

山本邦子先生
山本邦子先生
もう1つは、中学生の頃に見た、ジャーナリストの吉田ルイ子さんだったかな。アパルトヘイトを取り上げた写真集だったんですけどね。子供ながらにそれがすごく衝撃的だったんです。『世の中には、私の知らない、想像ができない世界が広がっているんだ』って感じて。文章は覚えていないんだけど、写真が衝撃的だったんです。1枚の写真から人は色んなことを想像できるんだ、って思う写真でした。 

その人がジャーナリストだったという記憶がずっと頭の隅にあったんですよね。自分が気付いていないことや皆が気付いていないことを人に伝えられること、文章を通して、人に伝えられること、世界中いろんな所に行けるって素敵だなと思ったんですよね。映像やカメラも好きでしたしね。

ジャーナリストへの過程で出会った、アスレティックトレーニング

1995年、カンザス大学トレーナー時代。邦子先生は下段の向かって一番右。

「かっこいいじゃない?カメラとか担いで」と笑顔で話してくれた、邦子先生。

今や、ジャーナリストでなくても一般人がブログやYouTubeなど、何かしらのツールを利用し、自分の見解や、作品を世に送り出すことが容易になった現代社会。

邦子先生の個人のブログやSNSは、いつも興味深い話題でいっぱいです。私自身、邦子先生から様々な刺激を受けている1人でもあります。

山本邦子先生
山本邦子先生
でも、ジャーナリストを目指すには、専門性を持たなければならない、ということに気づいて。自分がスポーツをしていた活かし、スポーツの勉強をしようと教育学部運動科学科への転部をしたんですよ。

これが、邦子先生とアスレティックトレーニングとの出会い。

自分がスポーツをしていた時にも鍼灸師や柔整師の方に診て貰っていたため、裏方として「選手目線でも、コーチ目線でもない目線からジャーナリストとして、スポーツを語れるかもしれない」と思い転部を決めたそう。

あくまで最初はジャーナリストへの道の過程として勉強されていたアスレティックトレーニング。20歳でアメリカに渡り、これが、邦子先生が数十年かけて追及する道となっていくのです。

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