ヨガ哲学を身体で体験してみよう!シリーズ Vol.10「スヴァディアーヤ=自己探求」

ヨガ哲学を身体で体験してみよう!

ヨガの哲学を日々のライフスタイルに取り入れ、上手にカラダと付き合っていく。
そんな自分自身のカラダの捉え方についてしゅんすけ先生が丁寧に解説してくれるこの企画。
ヨガのカラダの使い方の「基礎」やその「極意」をヨガ哲学を通して気軽に学べます。
きっと、ステキな気づきがあなたにもあるはずです。


Philosophy × Karada コンテンツ
ヨガ哲学を身体で体験してみよう!シリーズ Vol.10
「スヴァディアーヤ=自己探求」

 

日常生活の指針その2
「ニヤマ=?した方がいいこと」5つの4つめです。

●スヴァディアーヤ=自己探求
=自分を知る=探求する=味わう=体で遊ぶ=気楽さを持ち合わせる
=人の言っていることをうのみにしない=自ら経験する・体験する=気づき
=チャンティングの練習をする=丁寧な言葉を選ぶ
=ひとつのポーズを長めに行ってみる(ホールドと言うと我慢なイメージなりますが、気楽さを併せ持って快適に)

 

もそもの意味は、こころを整える働きをもつ書物を読む。
お経や経典を読みましょうということ。

でも人間の体にはその経典レベルの英知があります。
何世代も受け継がれてきた自身の体の声を聴くっていうことです。
これ、ぼくは大好きです。
13歳くらいからずっとやってます(笑

どうしたら速く走れるのか?速く動けるのか?
どうしたらつよくやわらかくなるのか?
そんなのばっかりでしたけど

最近は
どうしたらやわらかい表情になるのか
どうしたらやわらかい物腰になるのか
どうしたら人とのつながりがやわらかくなるのか
どうしたら人の役に立てれるのか
どうしたら笑顔になれるのか
どうしたら和になってみんなでごはんをたべれるのか
そんなのが増えつつあります.

自らの体験から見出したものってなかなか消えません。
だから必要ですし
だから大事です。

体で遊んで遊んで発見をする。
子どもたちが毎日やってることですが
感覚が鋭くなります。

考え込むのではなく
試しては失敗、試しては失敗。
試行錯誤って実はおもしろいです。
大人になると失敗が怖くなってやらなくなるのですが
(時間もなかなかとれなかったりしますけど)実にもったいないです。
人生正解なんてたぶんないので、多くの失敗をしたもの勝ちのような気もします。
チャレンジにはポジティブな気持ちが伴いますから。

現代社会は特に情報氾濫しています。
情報氾濫によって混乱してしまいがちです。
どっちが正しいの?って。
自分で決める・判断する能力もだんだん怪しくなってしまいますし...。
人の言っていることをうのみにしないためにも
からだで遊んでは気づきを得る。
そうこうしている感覚が鋭くなって
「ああ、これはぼくには必要ないや」とか「ああ、これは今必要だ」とか
なんとなくわかるようになってくると思います。

西洋的な「正しい/正しくない」に代表される
二元論「善/悪」「損/得」「良い/悪い」「敵/味方」など
ふたつに一つではなく(これだと精神的にはいつもどちらかの「極」でゆさぶられてしまいます)

東洋的な「ひとつの道を歩んでいる途中」に代表される
一元論「良いも悪いもどちらも存在している」わけでして中庸=中立なんだと思います。
(いつも真ん中からどちらの側面も観ていられるようになるんではないかなと思います)

身体的にも自身の芯にあたるものがしっかりしてくるからだと思われますが
失敗という経験が大きくしてくれるのだと思います。

解決策がいつもワンパターンだったりするのも
そこで自分を知らなければ、また同じ繰り返しをしてしまいます。
「同じパターンにはまならいため」にでもあります。


体的には
「どのくらいの力具合でやればいいのか?=体感しやすい速度でスローに動く」
「ちょうどいい範囲・位置はどこなのか?=体感しやすい速度でスローに動く」
「呼吸を観ること・流れ・変化を客観視する=ヴィンヤーサ」
「今その瞬間に、なにを体験し、なにを想っているのか?尊重すること、味わうこと=ホールド」
が大事な練習になってきます。

また
「マントラと唱えること=チャンティング」
丁寧にやさしく声を出すことで
鎖骨や喉が整えられる。
その影響で胸や肩甲骨も整えられる。
呼吸が自然と入っていきでていく。
その循環が良くなる。
より呼吸を観やすくなります。

そうなってくると
同じ喉をでていく「言葉」も整えられてくると思います。
ポジティブな発言が多くなったり(ネガティブな側面だけ観ているのではなく)してきたりする影響で
「言霊(ことだま)」=言葉の影響を受け、自己暗示にかかるのかもしれません。

それって
「自分を肯定する」
「自分で自分を認める」
ってことなのかもしれません。

自らに良い言葉を発っせていると
貯まり溢れてきて
おそらくまわりの人にも
丁寧なやさしい言葉を発していくと思います。
それらが雰囲気やオーラを創っていくのかもしれません。
人の良いところも悪いところも
やんわりと的確に?言える人のまわりには
たいてい人が集まってくるし
実際集まっているように思えます。
チャンティングってそんな練習なのかもしれません。

そして言霊の話で少し脱線すると...
自分の名前にはすごく意味があると思ってます。
人生において自分にしか出来ないこと
人生において自分がすべきこと
それが名前には隠されている気がします。
自身を肯定する・認めるということは
名前を肯定することでもあるし
全うすることでもあるのかもしれません。
個人的な体験だと
名前がキライでキライでしょうがなかったときは
人生なにもうまくいっていませんでしたが
つい最近名前を気に入ってきました。
そうするとちょっとうまく行ってます。
すごく不思議ですが
からだくんもこころちゃんも
喜んでいるように感じてます。

た言葉が本当に重みを持つのは
本から記憶した情報ではなく
自身の体験から「引用」するときだけみたいです。

シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサさん
あなたが学んだことをすべて忘れよ。
もう一度子どもになるのだ。
そうすればその知を悟ることはたやすい

と常々おっしゃられていたそうです。

子ども時代のように
素直で純粋で
からだを使って遊び
体験して学ぶ
そゆことなのかもしれません。

 

そしてそして話は戻ってきて


「認められたい」
欲求が強くなると
強くなりすぎると
我=エゴが強くなります。
「自分が!自分が!おれが!おれが!」
と周りの人のことを考えられなくなる方向へいきます。

でもそれっていつまでどこまで行っても
満たされることはなく、逆に周囲からの
無用な期待が膨らむばかりで
自身は余計に苦しむだけです。
最終的にはもろく崩れ落ちてしまいます...。
苦しいなんてものじゃなく...
立ち直れ無くなる人も大勢いると思います。

で、経験上、ぼくは、そこで何を想ったかというと
「まず、自分で自分を認めていたのか?」ということ。
「からだくん、本当にごめんなさい、まったくでした...」
と素直にでてきました。

分が認めてあげれないとダメじゃん。
人からの評価なんてすぐ変わるものなんだし
そんなのに踊らされゆさぶられてどうすんの?
って。

こころとからだがむすびついてないじゃん。
むすぶためには認め合おうよ。
「絆」深めようよ。
と自問自答は繰り返されました。

自分で認められていくようになると
人から認められようという欲=我が少なくなります
(なくなることはないと思いますが、少なくなり
バランスがとれるようになってくるとは思います)
これすごく大事に感じてます。

身が自身を
認めず否定し続けていると

自らの中から外へ彷徨い
それを他者へ求めるようになり

自己を主張し続け...
傲慢になり...
自分しかみえなくなり...
周りに助けられていることさえも忘れ...
感謝や礼儀もどこかに置き忘れしまい...

「ジブンは悪くない」
「環境がわるいんだ」
「しょーがないじゃないか」
などと言い訳ばかりしてしまい

その責任も自立もない状態で行動していると
必ず

人とのつながりを台無しにしてしまい...
本当にこころから大切な人とのつながりが失われてしまい...
一生後悔するようなことをしてしまうかもしれません。


分で自分を認めてあげる。
まずそこからなのかもしれません。
そうしていると次第に
人を認められるようになり
人の良いところを観れるようになり
人とのつながりはやんわりになってくるのかもしれません。


からだからの
体験からの
気づき。

子ども時代とおんなじ遊ぶように動く。
はしゃぎ、ころび、立ち直り、学習する。

教育って「教える」があっても「学ぶ」がなければ
教育とは言えないみたいです。

自分自身を成長させてくれるのは
やはり自分自身なのかもしれません。


先から受け継いだ遺伝子は3%くらいしか解明されていないそうですが
ものすごい情報量が蓄積されているようです。
ある文献を読んでその推測おもしろいなと感じたものに

「残りの97%には
今までの先祖の身体で体験した情報すべてが
納められているのでは?」というもの。

その情報の倉庫へ行くのに
ランナーズハイのような状態なり
ヨガや禅に象徴される瞑想なり
シャーマンたちが行う儀式なり
宗教的儀式なり
ダンスや音の一定のリズムによるトランス状態なり
臨死体験なり

そゆ状態になったとき
(これらは似通った状態だとぼくも推測しています)
そこへアクセスし
「今必要な情報を、メッセージとし取り出してくるのではないか?」
ということらしいです。

(アクセスしているときに観ているビジョンもそっくりなようです。
半神半獣な古代洞窟壁画やエジプトやマヤで描かれているもの時代や文化は違っていても。)

うやら先人たちの知恵を授かっているようです。
だからこれらの状態を体験した人は
生まれ変わったように新たな行動をし始めます。
大いなる智慧を得たのではないでしょうか。

と個人的には壮大なロマンなような気がして
この推測大好きなのですが(笑
そうだったらいいなと密かに想ってます。

だから先祖を大事にする。
=お墓参りをする・神社へ参る。
=感謝や報告をする。
そゆことなのかもしれません。
身体の奥深く眠る遺伝子たち(ご先祖)が
喜ぶのかもしれません。

だからすっと穏やかなキモチになるかもですね。
太古からのご先祖と今現在の自分がつながるから。

ヒンドゥー教やヨガでも言われてることですが
「弟子の準備が整ったとき師匠は現われる。」
それって「自分の先生は自分の中にいる状態。」なのかもしれません。

身を知ること
さすれば恩寵を受ける。
知り得たこと=気づきを実行に移す=日常に役立てる=周りの人に役立てる
気づいて終わりではなく、気づきから始まるのだ。
それを「経験哲学」と言うみたいです。

「体験を尊重する」
「感覚を尊重する」
「人の言っていることを鵜呑みにしない」
「試行錯誤する」
「学習する」
「責任を持つ」
「自立する」

つまり
からだもこころもたましいも
すべて揃って
成長し
自身の可能性を信じて
人の役に立てるようになること。
それって人とのつながりがずいぶんやわらかくなりそうです。

 

まとめ
「体で遊ぶこと、呼吸を観ること、チャンティング、ヴィンヤーサ+ホールド」を実践することで
「スヴァディアーヤ=自己探求」ということを
身体に刻み込んで、日常生活でも自然とできるようにしていきましょう。

TT講座: 陰ヨガ | キッズヨガ | ヨガ留学

ヨガジェネお気に入り